第58話

完璧だ

皿を両手で持った。卵のふちの焦(こ)げの色は、ふだんよりはっきり立っている。皿の表面(ひょうめん)で湯気(ゆげ)が薄く立ち上り、台所(だいどころ)の夜明(よあ)けの灰色(はいいろ)を白く変えていた。

美月(みつき)は皿を台所から廊下(ろうか)に運んだ。書斎(しょさい)のドアは、開いたまま。机(つくえ)の上の円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光のいちばん最後で、ひと拍(はく)遅れたひと呼吸が、もう一度繰(く)り返された。

美月は皿を、机の上の円筒形のデバイスのすぐ手前に置いた。湯気の向こう側で、青い光が薄く揺(ゆ)れる。ケンはひと呼吸、何も言わずに待っていた。

「父さん。焼けたよ。父さんの前に置いた」

『置いたぶん、見ている』

「父さんの目から、ちゃんと皿、見える」

『見える』

「焦げのふちも、内側のチーズのぶんも」

『見える』

ケンは間(ま)を置いた。青い光が、ふだんの強さで灯った。

灯った青の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、皿の横の木の椅子(いす)に座った。

座った椅子の上で、ひと呼吸ぶん両手を膝(ひざ)の上に置いた。

置いた両手の左の薬指(くすりゆび)の上の銀色のリングは、書斎の青い光に、ひと呼吸ぶん薄く照らされていた。

美月はフォークを手に取り、卵のいちばん内側に入れて、ひと口を口に運んだ。

ふた呼吸ぶん多いチーズが舌(した)の上に広がり、外側の焦げのふちが、ぱりっと鳴った。

目を閉じた。

まぶたの裏で、五歳(ごさい)の朝の世界一(せかいいち)の皿の黄金色(こがねいろ)が立ち上がる。すぐ脇(わき)に、対決(たいけつ)の朝の半段(はんだん)深い焦げと、銀杏亭(ぎんなんてい)の半年の手のぶんが、薄く重(かさ)なった。

目の奥が熱くなり、目のはしからひと筋(すじ)がこぼれて、ジーンズの膝に落ちた。

美月は目を開けた。書斎の青い光は、ふだんの強さで灯っていた。

「父さん。世界一(せかいいち)美味(おい)しい。父さんはどう思う」

『……半拍(はんぱく)ぶん、答えに遅延(ちえん)が出る質問(しつもん)だ』

「うん。待つ」

『ありがとう』

「待つよ」

ケンはふた呼吸、何も言わなかった。青い光が、ふだんの強さよりひと呼吸ぶん薄く揺れる。

『美月。味覚(みかく)はないが、ひとつだけ判定(はんてい)できる』

「うん」

ふだんの強さに灯り直した青のいちばん最後で、ケンはこう答えた。

『……ああ、完璧だ。私が教えた通りだな』

「完璧」、のひと文字の向こう側で、美月の肩(かた)が震(ふる)え、半拍遅れて薄い笑いがこぼれた。膝の上の最初のひと筋の脇に、もうひと筋が落ちた。

「父さん。嘘(うそ)つき」

『……嘘、と判定されたことは、初めてだ』

「父さん、嘘ついた」

『……ついた』

美月は両手のひらで目のはしを軽く押(お)さえ、もう一度薄く笑った。

「『私が教えた通り』じゃ、ないでしょう」

『……』

『……』

『……私(わたし)たちで、開発(かいはつ)した』

「うん」

書斎の青い光は、ひと呼吸ぶん、ふだんの強さで灯っていた。

灯った青のいちばん最後で、ひと拍遅れたひと呼吸が、もう一度繰り返された。

繰り返されたひと拍の向こう側で、ケンの声はもう、何も言わなかった。

言わないまま、皿の表面の湯気は、ひと呼吸ぶん薄く立ち上っていた。

立ち上った湯気のいちばん上で、書斎の青い光と湯気の白さが、ひと呼吸ぶん薄く混じった。

混じったぶんのいちばん最後で、ケンはひと呼吸ぶん、こう続けた。

『美月。ふた口目は、いま食べるか、家を出る前か、選(えら)んでいい』

「いま食べる。ぜんぶ。父さんの前で。最後の食卓(しょくたく)だから」

『最後の食卓』

「父さん、見てて」

『見ているよ』

「うん」

第58話 完璧だ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。