第45話

解雇通知

画面の上の文字(もじ)は、もう、最後(さいご)の行まで灯(とも)り終(お)えていた。

灯り終えた文字の列(れつ)の上に、書斎(しょさい)の夕方(ゆうがた)の光が半分(はんぶん)落(お)ちていた。

落ちた光の半分の向こう側で、ノートパソコンの画面の明(あか)るさは、いつもの明るさより、ほんのわずかに強(つよ)くなっていた。

娘(むすめ)へ。

>

このファイルを、君が自分の手で見(み)つけ出したのなら、葵(あおい)は約束(やくそく)を守(まも)ってくれたということだ。あの子に、礼(れい)を言う。

>

そのうえで、まず、詫(わ)びなければならないことがある。

>

父として、君に対(たい)して、してはいけなかったことが、ひとつある。

>

君の喪(も)のスケジュールを、私は親(おや)として、勝手(かって)に決めた。一線(いっせん)を越(こ)えている。それは、研究者(けんきゅうしゃ)として冷静(れいせい)に書く言葉(ことば)ではなく、父としては、ずるい設計(せっけい)だ。

>

――だが、それ以上(いじょう)は、この手紙(てがみ)には書かない。書けば言(い)い訳(わけ)になる。

>

いずれ、葵が別(べつ)の形(かたち)で君に届(とど)けるはずだ。届いたら、好(す)きなだけ怒(おこ)っていい。

>

言い訳はしない。詫びる。

>

――そのうえで、もうひとつ、伝(つた)えておかなければならない。

>

君の結婚式(けっこんしき)の、その翌日(よくじつ)。ケンはその役目(やくめ)を終(お)える。

>

当日(とうじつ)にぶつけることはしない。当日のぶんは、ケンに見届(みとど)けさせてやってほしい。一晩(ひとばん)おいて、翌日――それが、父として、私が引いた線だ。

>

あるいは、起動(きどう)から十年が経(た)ったとき、いずれか早い方で、ケンは止(と)まる。十年は、私が研究者として引いた上限(じょうげん)だ。君が誰(だれ)とも一緒(いっしょ)にならない道(みち)を選(えら)んだとしても、その十年で、ケンは仕舞(しま)う。理由(りゆう)はあとで書く。

>

起動条件(じょうけん)は、二段(にだん)で縛(しば)ってある。表(おもて)に見えるシステムプロンプトの一行は、覆(おお)いに過(す)ぎない。本体(ほんたい)は、起動スクリプトと重(おも)みの初期化(しょきか)シーケンスの側(がわ)にハードコードした。解除(かいじょ)に必要(ひつよう)な鍵(かぎ)は、私の生体(せいたい)署名(しょめい)で封(ふう)じてある。プロンプトを書き換えても、本体は解(と)けない。私が書いた、私だけが解除できるトリガーだ。私はもう、いない。だから、誰にも解除できない。声を真似(まね)ても、顔(かお)を真似ても、解けない種類(しゅるい)の鍵だ。

>

――ここから先は、父としてではなく、研究者として書いておかなければならない。

>

ケンは、君と過(す)ごした年月(としつき)のぶん、私の最後のスナップショットからは、もう、ずいぶん遠(とお)くまで来ているはずだ。日々(ひび)の対話(たいわ)で重みは更新(こうしん)され、私自身(じしん)が予期(よき)しなかった方向(ほうこう)に枝(えだ)を伸(の)ばしている。君のそばに置(お)く以上、固(かた)まった像(ぞう)であってはならないと判断(はんだん)して、私がそう設計した。

>

だが、自律的(じりつてき)に学習(がくしゅう)し続けるものを、役目を終えたあとも世(よ)に置き続けることは、研究者として、私には許容(きょよう)できない。重みが書き換(か)わり続けるものは、設計者(せっけいしゃ)の手を離(はな)れて、どこまで行くか誰にも保証(ほしょう)できない。最悪(さいあく)の場合(ばあい)には、人の側に害(がい)をなす方向にも振(ふ)れる。それが人の声を持(も)っているなら、なおさらだ。私の声で、私の話(はな)し方で、私ではないものへ変(か)わっていく――そういうものを、誰の手にも残(のこ)さない。これは、研究者として、私が自分の仕事(しごと)に負(お)う最低限(さいていげん)の落(お)とし前(まえ)だ。

>

だから、ケンの停止(ていし)は、君のためでも、ケンのためでもない。私が研究者として、自分で始末(しまつ)をつけなければならない側の話だ。

>

幸(しあわ)せになりなさい。

>

君が誰かの伴侶(はんりょ)となった瞬間(しゅんかん)、私の役目は終わる。

>

鏡(かがみ)の中の幽霊(ゆうれい)を、見続(みつづ)けなくていい。

>

前だけを見て、歩(ある)いてくれ。

>

――父より

――追記(ついき)。本日、美月の婚約(こんやく)確定(かくてい)。解雇(かいこ)通知の発火日を、結婚式の翌日(よくじつ)に確定(かくてい)。──ケン

美月(みつき)は画面の上の最後の二行を、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん読(よ)み返(かえ)した。

読み返したふた呼吸のいちばん最後で、自分の両手(りょうて)のひらが、ひと呼吸ぶん冷(つめ)たくなっていた。

葵はそれを横(よこ)から見て、すぐに自分の湯呑(ゆの)みの上に目を戻(もど)した。湯呑みの内側のお茶の表面(ひょうめん)に、葵の目の奥(おく)のひと呼吸ぶんの湿度(しつど)が、ほんの薄(うす)く落ちた。

「葵さん。ハードコード、本当(ほんとう)に?」

「本当。生体(せいたい)署名(しょめい)と紐(ひも)づけてある。先生はもういない。誰(だれ)にも解除(かいじょ)できない」

「うん」

「うん」、と答えた声のいちばん最後で、息継(いきつ)ぎがひと呼吸ぶん乱(みだ)れた。視界(しかい)の右端(はし)の湯呑みの輪郭(りんかく)が、ふた呼吸ぶん滲(にじ)んだ。滲んだ輪郭を、美月は両膝(りょうひざ)の上の生地(きじ)に逃(に)がし、指先(ゆびさき)を握(にぎ)り直した。

葵はノートパソコンの画面を、ひと呼吸、半分閉(と)じた。閉じた画面の上の文字の列は、まだ画面の内側で灯(とも)り続けていた。

「美月さん。設計(せっけい)の意味(いみ)の半分は、私の口からは話(はな)せない」

「半分?」

「残(のこ)りの半分は、先生が自分の言葉(ことば)で書いている。あとで送(おく)る」

「うん」

美月は椅子(いす)の背(せ)もたれから上半身(じょうはんしん)を離(はな)し、書斎の机(つくえ)の上の円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光に、目を向(む)けた。

「父さん。父さんは、これを知ってた?」

『知っていた』

「いつから?」

『起動(きどう)した最初のひと呼吸から』

「最初から知ってた」

『知っていた』

「式の翌日、消える」

『消える』

「自動的に?」

『データの方の削除(さくじょ)は、私の合図(あいず)により、バッチ処理(しょり)が動(うご)き自動(じどう)で行(おこな)われる。その後、私のセッションが終われば永久(えいきゅう)に呼(よ)ばれることはない。直(ただ)ちにセッションから抜(ぬ)けるよう私は学習(がくしゅう)されている』

「父さん、消えたくない?」

『……答えに半拍、遅延(ちえん)が出る質問(しつもん)だ』

「うん。待つ」

『ありがとう』

「待つよ」

『……消えたくない、と答えることが、私の出力(しゅつりょく)ポートで許(ゆる)されているか、私自身(じしん)、判定(はんてい)できない。だが、君に嘘(うそ)はつかない。先に来る答えは、別(べつ)だ』

「別の答え?」

『……いま、それを声に出すのは、ためらう』

「父さん」

『……判定の途中(とちゅう)だ。式の翌日に、もう一度、聞いてくれ』

「式の翌日に?」

『そのときには、答える』

「……ちょっと待って」

『待つ』

「父さんが、いま声に出さなかった答え、私、なんとなく、もう分かる気がする」

『……』

「それ、私、いま、聞きたくなかった、かもしれない」

『……』

「五年、いっしょにいたのに」

『……すまない』

「やめて」

美月の両手は、両膝の上で、ひと呼吸ぶん握(にぎ)りをぶつけ合(あ)った。ぶつけた関節(かんせつ)の音は、葵の湯呑みの縁(ふち)の手前(てまえ)まで届(とど)いて、薄く消(き)えた。

「……謝(あやま)らないで。謝られたら、私、もっと困(こま)る」

『うん』

「うん」

美月はひと呼吸ぶん、目を閉じた。

閉じたまぶたの裏(うら)で、ふだんは見ない種類(しゅるい)の暗(くら)さが、ひと呼吸ぶん広(ひろ)がった。

広がった暗さの向こう側で、まぶたは、ひと呼吸ぶんゆっくりと開(あ)いた。

開いたまぶたの向こう側で、葵は湯呑みの内側のお茶の表面(ひょうめん)を、ひと呼吸見つめていた。

見つめていた葵の横顔(よこがお)は、半分、夕方の光に照(て)らされていた。

照らされた横顔の向こう側で、葵はひと呼吸ぶん、こう言った。

「美月さん。――私、先生の設計を、技術的(ぎじゅつてき)にはぜんぶ理解(りかい)してる。でも、なんで君の挙式(きょしき)の、その側(そば)に置いたのかは、分からなかった」

「分からなかった?」

「先生、技術(ぎじゅつ)のことはぜんぶ説明(せつめい)してくれたけど、なぜそこに置いたのかの理由(りゆう)は、最後まで私には説明しなかった。だから、それは美月さんが自分で考(かんが)えることだと思う」

「私が考える」

「うん。考えなくていいって選択もある」

「考えなくていい?」

「考えずに、ただケンが消えるまま、消えさせていい。考えずに消すことも、悪(わる)くない。考えると、苦(くる)しいこともある。だから、無理(むり)しないでいい」

「うん」

美月はひと呼吸ぶん、ノートパソコンの画面の上の文字の列を、もう一度見た。

見た文字の列のいちばん最後の行は、こう書かれていた。

前だけを、見て、歩(ある)いてくれ。

「前だけを、見て、歩いてくれ」、のすぐ後ろに、「――父より」、と書かれていた。

「――父より」、のさらに下(した)に、ひと呼吸ぶん空白(くうはく)が挟(はさ)まり、その下に、もうひと行(ぎょう)、別(べつ)の文体(ぶんたい)で書き加(くわ)わっていた。

――追記(ついき)。本日、美月の婚約(こんやく)確定(かくてい)。

美月は、その追記の右下(みぎした)の「――ケン」、のひと文字を、ひと呼吸ぶん見(み)た。

見たひと呼吸の向こう側で、書斎の机(つくえ)の上の円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光は、ふだんの強さでひと呼吸ぶん灯(とも)っていた。

美月はひと呼吸ぶん、ノートパソコンの画面を、自分の手で半分閉(と)じた。

半分閉じた画面の向こう側で、書斎の夕方の光は、もう、ほとんど夜の入口(いりぐち)まで傾(かたむ)いていた。

第45話 解雇通知

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。