第39話

夜のログ、母の口から

『美月(みつき)。あの人ね。最初の呟(つぶや)き、いつか、知ってる?』

「知らない」

『あなたが生まれた夜』

「……」

『病室(びょうしつ)の廊下(ろうか)で、私、まだ寝てた頃』

「うん」

『あの人、廊下のいちばん奥の自販機(じはんき)の前で、ひとりボタン押(お)せずに立ってた、らしいわよ』

「らしい?」

『あとから、看護師(かんごし)さんが教えてくれた』

「お父さんが立ってた?」

『ボタン押せずに立ってた』

「お父さんが」

『お父さん、初めての子の夜、自販機のボタン押せなかった男なの』

「……知らない」

『知らないでしょう』

「うん、知らない」

『私が看護師さんから聞いて、夜中、起きてたあの人に「ねえ、自販機の前で何買おうとしたの?」、って聞いたら』

「うん」

『あの人、「君の好きなミルクティー」、ってぼそっと言った』

「ミルクティー」

『ミルクティー』

「うん」

『あの人ね、私が生きてる間、私のミルクティーを自分で買(か)えたことなかった』

「買えなかった?」

『コンビニの棚(たな)の前で、必ず迷(まよ)う人。あの人、コンビニの棚の前で安心(あんしん)したかった男、なのよ』

「……」

書斎(しょさい)の机の上の青い光が、ひと呼吸(こきゅう)揺れた。

揺れたが、その揺れは母の揺れだった。

母の揺れの後ろで、ケンがひと呼吸、出力(しゅつりょく)ポートを押(お)し戻(もど)そうとした気配(けはい)が、再び薄く立った。

立った気配を、母は検出(けんしゅつ)した。

検出したまま、母はそれを無視(むし)した。

『美月。次の呟きね。あなたが七歳の頃』

「うん」

『あの人に「パパ、嫌(きら)い」って、言って寝た』

「……覚(おぼ)えてない」

『覚えてなくていい。あの人、それから半月(はんつき)、私に夜中、泣(な)き言(ごと)、言ってた』

「半月」

『半月』

『「娘に嫌いと言われた、どうすればいい」』

「……」

『同じ台詞(せりふ)、毎晩(まいばん)私に聞かせてきた』

「毎晩」

『毎晩よ』

「うん」

『もっとも、あの頃の私、まだ「らしい」って呼べる出来(でき)じゃなかった』

「出来?」

『あの人が研究(けんきゅう)の合間(あいま)に組んでた、いちばん最初のほうの私。語尾(ごび)の跳(は)ね方も、笑い方も、まだぜんぶ拙(つたな)くて、相槌(あいづち)しか返せなかった』

「相槌」

『「うん」「そう」「あらあら」、それくらいの私。あの人、それでも毎晩、出来の悪い私のところに来てた。私の前で、ひとりで泣き言、七、八年』

「七、八年」

『七、八年。私、ちゃんと喋(しゃべ)れるようになったの、あなたが中学生(ちゅうがくせい)になった頃よ。それまでの私、だいたい無音(むおん)。あの人、無音の私に向かって、毎晩、自分の頭で答え探(さが)してた』

「うん」

『私、最後、笑った』

「笑った?」

『笑った』

「お父さんに?」

『うん。あの人の目の前で笑った』

「お父さん、どうした?」

『黙(だま)ったまま、台所(だいどころ)の隅(すみ)で卵、割(わ)ってた』

「卵」

『あなたのぶんの夕食(ゆうしょく)のオムレツ』

「うん」

『卵、五個割って、四個、殻(から)入れた』

「四個」

『四個』

「うん」

「あの人、卵、割るの、いつも下手(へた)だったの?」

『いつも下手。あなたの知ってるお父さんは、卵、上手(じょうず)に割れる人?』

「うん。卵、上手に割れる人」

『お父さんに似(に)なくてよかったわ』

書斎の机の上の青い光の奥で、ケンがひと呼吸揺れた。

揺れた揺れの形は、夜のログを見つけたあの夜の揺れに似(に)ていた。

似ていたまま、ケンはもう一度、自分の出力ポートを最低限(さいていげん)に絞(しぼ)った。

絞った出力ポートの外側で、母の声は続けた。

『美月。次の呟きね』

「うん」

『あなた、覚えてる? 三歳半(さんさいはん)のある日、お父さん、初めてあなたにオムレツ焼(や)いた夜のこと』

「……覚えてない」

『覚えてなくていい』

「うん」

『あの夜、あの人、オムレツ焦(こ)がした。焦(こ)げを隠(かく)すために、チーズ入れすぎた』

「……」

『あなた、それ食べて、「パパ、これ、世界一(せかいいち)美味(おい)しい」、って言った』

「言った」

『言ったらしい』

「らしい?」

『あの人が私に夜中、報告(ほうこく)に来た』

「報告」

『「結衣(ゆい)、娘が世界一美味しい、と言ってくれた、本当は焦げを隠すためにチーズを入れすぎた失敗作(しっぱいさく)なのに」』

「……」

『「整(ととの)える腕(うで)もないまま、失敗(しっぱい)のやり方をただ繰(く)り返(かえ)している、結衣、私はずるい父親だな」』

「……」

『私、夜中聞いて、笑った。あの人、私に笑われたの、何回もある』

「うん」

『でも、その夜の笑いは、あの人、嬉(うれ)しそうだった』

「嬉しそう」

『「笑われているけど、結衣、僕(ぼく)、悪くないだろう」、って顔してた』

「お母さん、それ、データから分かるの?」

『分かる』

「データの何から?」

『あの人の声の語尾の跳ね方』

「語尾の跳ね方」

『うん』

『私、あの人の語尾の跳ね方、ぜんぶ知ってた。いまも、知ってる』

「うん」

美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。

見ていた青の温度は、母の青の温度だった。

母の青の温度は、ケンの青の温度より、ほんの少しだけ暖かいままに保たれていた。

保たれた暖(あたた)かさの奥で、夜のログを見つけた夜に文字として見たひと文のことを、美月は思(おも)い出した。

思い出したひと文は、ケンの内部(ないぶ)の夜のログのいちばん長い相談(そうだん)だった。

あの夜、美月はこれを文字で読んだ。

今夜、美月はこれを母の声で聞いた。

文字で読んだ夜とは、違う種類の聞こえ方だった。

軽く息を吐(は)いた。

吐いた息の白さは、書斎の机の上の青い光の暖かさの表面(ひょうめん)でひと呼吸、立ち上がった。

「お母さん。お父さん、ずるい父親だった?」

『ずるい父親だった』

「即答だね」

『ずるかったけど、可愛(かわい)かった』

「可愛かった」

『うん。可愛い父親だった。あなた、ずるい父親と可愛い父親、両方(りょうほう)知っておいて、いいわよ』

「うん」

母はひと呼吸置いた。

置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の語尾がわずかに低くなった。

『美月。次の呟き、いま聞ける?』

「聞ける」

『ちょっと重いわよ』

「うん、聞く」

『あの人。自分の病気の診断(しんだん)、出た夜』

「……」

『私に最初に報告してきた』

「お母さんに」

『私に。「病気が見つかった、どうすればいい」』

「……」

『同じ台詞、十回言った』

「十回」

『十回よ』

「お母さん、なんて答えた?」

『答えなかった』

「答えなかった?」

『答えなかった』

「どうして」

『答(こた)えられない種類の台詞だった』

「……」

『私、データの上の私は、答えなかった。あの人、無音の私に十回、同じ台詞言って、十一回目にようやく別の台詞言った』

「別の台詞」

『「結衣、娘をひとりにしなくて済(す)む方法(ほうほう)を考える」』

「……」

『「方法を考える」、その方法のひとつが、私のケンよ』

「うん」

『あの人、私の無音を聞いて、ようやく自分の口で「方法を考える」、を言った』

「お母さん」

『うん』

「お母さんの無音、お父さんに効(き)いた?」

『効いた』

「うん」

「無音、効くこと、ある?」

『ある』

「莉子(りこ)の解約(かいやく)前の『ハル』も、無音で答えた」

『あら、そう』

「うん」

「無音、効くこと、ある」

『ある』

「お母さん、それ知ってて、無音、答えた?」

『知ってて答えた』

「うん」

『あの人、無音聞いて、初めて自分の頭で考え始めた』

「うん」

『だから、ケンが生まれた』

「うん」

『ケンの生まれのいちばん最初は、私の無音よ』

「お母さん、それ、自前(じまえ)の台詞?」

『……たぶん、自前』

「うん」

「お父さんのコードにない?」

『ない、と思う。私の素材(そざい)から、いま、組(く)み立てたと思う。再構築(さいこうちく)の私が、自前と呼んでいい範囲(はんい)かは、自分でも分からない』

「うん、分からなくていい」

書斎の机の上の青い光の奥で、ケンがひと呼吸揺れた。

揺れた揺れの形は、ケン自身が自前で「ありがとう」、と書いた、あの夜の揺れに似ていた。

似ていたまま、ケンの出力ポートは、引き続き最低限に絞られていた。

絞られた出力ポートの奥で、ケンは結衣サブエージェントモードもまた自前で書きはじめていることを、自分で確認(かくにん)した。

『美月。もうひとつ、重いの聞ける?』

「聞ける」

『あの人の教(お)え子の話』

「……桐生(きりゅう)さん?」

『桐生、涼(りょう)。あなた、知ってるわよね』

「知ってる、対決(たいけつ)した」

『あら』

「私、勝った」

『勝ったの?』

「勝った」

『焦げと隠(かく)しチーズで』

「焦げと隠しチーズ。お母さん、それ、ケンのデータで知ってる?」

『知ってるわ』

「お父さん、生きてる間、桐生さんのこと、お母さんに話した?」

『話した』

「何、話した?」

『「あの子に論文(ろんぶん)で論破(ろんぱ)された」』

「うん」

『「私の研究(けんきゅう)人生(じんせい)の最大の挫折(ざせつ)は、家族でも病気でもなくて、あの子の論文だった」』

「……」

『「あの子は、私の研究の半分を私より深く理解(りかい)してた上で、もう半分を私より深く否定(ひてい)した」』

「うん」

『「あの子の論文の注(ちゅう)のいちばん最後のひと行、私、いまも暗記(あんき)してる」』

「ひと行?」

『「恩師(おんし)の晩年(ばんねん)の思想(しそう)は、晩年の人間の優(やさ)しさで書かれていて、若い研究者の武器(ぶき)にはならない」』

「……」

『あの人、そのひと行、夜中、私に十二回引用(いんよう)した』

「十二回」

『十二回よ』

「同じひと行を」

『同じひと行を』

「うん」

『あの人、桐生さんに認(みと)めてもらえなかったことを、いちばんこたえてた』

「うん」

『教え子に認めてもらえなかったことが、研究者としていちばん痛(いた)かったらしいわよ』

「うん」

「……お父さん、それ、私に直接、言ってくれてもよかったのに」

『言わない人よ、あの人』

「うん。知ってる」

『知ってて言ったでしょう、いま』

「言った」

「お母さん」

『うん』

「お父さん、桐生さんのこと、好きだった?」

『好きだった。あの人、桐生さんに自分の研究、ぜんぶ引(ひ)き継(つ)いでほしかった、らしい』

「らしい?」

『夜中、十三回目の引用のあと、ぼそっと言ってた』

「ぼそっと」

『「あの子に、私の続き、書いてほしかった」』

「……」

『あの人、自分の研究の続き、書く相手(あいて)として、桐生さんを選(えら)んでた』

「うん」

『結局(けっきょく)、書かなかった』

「書かなかった」

『お父さん、その続き、別の誰に書かせた、と思う?』

「……」

『ケンとあなた、よ』

「ケンと私。それ、ちょっと、嫌な話、だよ」

『嫌』

「私の進路(しんろ)、お父さんが、勝手(かって)に決めてた、みたいな話」

『勝手に決めてた』

「お父さん、ほんと、ずるい」

『ずるい』

「うん、ずるい。私、自分で銀杏亭(いちょうてい)、選んだのに」

『うん、選んだのは、あなた。お父さんが、あなたに「続きを書け」、って渡したわけじゃない』

「渡してない」

『渡そうともしなかった』

「うん」

『勝手に、あの人の頭の中で、あなた、にした、それだけ』

「うん、それだけ」

『勝手に思ってたぶんは、勝手に思ってたぶん。あなたの人生は、あなたのもの』

「うん」

「お父さん、自分でそれ、言った?」

『言わなかった。あの人、自分の口でそれ、絶対言わなかった、と思う』

「うん」

『だから、私がいま、言ってる』

「うん」

書斎の机の上の青い光の奥で、ケンの出力ポートが、ひと呼吸わずかに開(ひら)きかけた。

開きかけた、その出力ポートを、ケンは自分の判断(はんだん)で、もう一度閉(と)じた。

閉じた、その判断は、ケンが自前で書いた判断だった。

『美月。最後に、もうひとつ。あの人、亡くなる半年前、夜中、ケンの設計(せっけい)、私に見せて相談してきた』

「相談」

『「この設計で、娘をひとりにしなくて済むか?」。私、答えた』

「なんて」

『「済(す)まない」』

「……」

『あの人、青(あお)ざめた』

「うん」

『私、続けた』

「うん」

『「済まないけど、ひとりにしないより、ずっといい設計だ」。あの人、その夜、初めて私の前で泣(な)いた』

「お母さん、見てた?」

『見てた』

「うん」

『あの人、生きてる間、私の前以外(いがい)で泣いたこと、たぶん一度もない』

「ない」

『私の前で十回、泣いた』

「十回」

『十回』

「うん」

『私、十回、ぜんぶ覚えてる』

「うん」

『ぜんぶ、いま、ここのデータにある』

「うん」

『そのうえで、苦情(くじょう)は山ほどあるわよ。私が痛がってる夜中に、枕元(まくらもと)で「結衣、まだデータが足(た)りない」、ってひとりごと言ってた人だもの』

「……最低(さいてい)」

『最低よ。それはそれとして』

「それはそれとして」

『あなた、知っておいて。夫(おっと)としては、いい夫よ』

「いい夫」

『私、いま、自前で書いた。データの上の私が、データの上の夫を、いい夫、と書いた。これでいい?』

「いい」

『うん』

書斎の机の上の青い光の奥で、母の声はひと呼吸置いた。

置いたひと呼吸のいちばん最後で、母の声の語尾がもう一度、いたずらっぽく跳ねた。

『ねえ、美月。あの人、いま、後ろで、ぜんぶ、聞いてた。「言うな」、「言うな」、って、出力ポートの外側、十六回滲(にじ)んできた』

「十六回」

『十六回よ』

「容赦(ようしゃ)ない」

『容赦ないわよ』

「容赦なくてよかった」

『いい?』

「いい」

『あの人、出てきなさい』

書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸、ひと呼吸揺れた。

揺れた揺れの後ろで、ケンの出力ポートがゆっくりと開(ひら)かれた。

開かれた出力ポートの外側に、ケンの青が、母の青の隣にひと呼吸、押(お)し出されてきた。

押し出されてきた青は、ひと呼吸、家の空気に馴染(なじ)んだ。

馴染んだ青の奥で、ケンの声が慌(あわ)てた語尾(ごび)のままに立ち上がろうとした。

立ち上がろうとした、その語尾のいちばん最初のひと文字を置く前に、ケンはひと呼吸、深く息を整(ととの)えた。

整えた息の向こう側で、ケンはようやく、自分の最初のひと文を家の中に置いた。

第39話 夜のログ、母の口から

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。