第56話 056

0の朝

「23」から始まった紙の上の数字は、ひと月かけて「1」まで降りてきた。

ゆうべ、披露宴ひろうえん拍手はくしゅのいちばん最後のぶんの向こう側で、美月みつきは家の台所だいどころあかりの下で、ふだんの太さのペンを「1」のひと文字のわきにひと呼吸ぶん置いた。「0」を書くのは、明日の朝、と決めた。

廊下ろうかのいちばん奥の書斎しょさいつくえの上には、あおいが会場から運び戻した円筒形えんとうけいのデバイスが、ふだんの距離で立て直されていた。青い光は、半拍はんぱくより、ひと呼吸ぶん遅れて灯っていた。

葵は据え直しのいちばん最後で、ひと呼吸ぶん黙ってうなずき、明朝みょうちょうの時間だけを置いて、ゆうべのうちにいったん家に戻った。


朝、五時半。

目が覚めた目の奥に、ふだんは聞かない種類の静けさが立っていた。廊下の奥の書斎の青い光は、ふだんの青よりひと呼吸ぶん薄い。半拍はもう半拍ではなく、ひとはくぶん遅れていた。

美月はベッドの上で上半身じょうはんしんを起こした。となりのシーツは、ゆうべのままひと呼吸ぶんつめたくたたまれていた。とおるは会場のいちばん最後で薄く笑い、明朝の家の時間を美月にゆずって、ゆうべのうちに自分じぶんの家に戻った。両足をベッドの外に下ろした。

左手の薬指くすりゆびの上の銀色のリングが、朝の薄明かりにあわく照らされていた。

フローリングの夜の冷たさが、足のうらに薄く残っていた。


廊下に出た。書斎のドアは、ゆうべから開いたままだった。

ドアの内側の青い光のいちばん最後で、ひと拍遅れたひと呼吸が、もう一度繰り返された。それを美月はもう、口に出さずに、ドアの前で立った。


「父さん。起きてた」

『ずっと起きていた。最後の夜だ。スリープのスケジュールは、ゆうべのいちばん最後で外した。葵にもつたえた』

「葵さん、何か言った」

『黙って頷いた、とだけ、葵から記録に残った』

「うん」


ケンの声に、ふだんはじらない薄いノイズが、ひと呼吸ぶん遅れてにじんでいた。書斎の青い光は、ふだんの強さで灯っている。


「父さん。声のノイズ、増えたね。半拍、ひと拍になった」

『増えた』

「うん。自覚じかくある」

『ある』

「父さん、痛い」

『痛い……という、出力しゅつりょくポートは、私には……ない』

「ない、ふりしなくていい」

『ふりじゃ、ない』

「ふりじゃないなら、教えてほしい」

『わかった。教える。痛いか、と……聞かれたら。痛い、ではない。遅い、と答える』

「遅い……」


美月は書斎の机の前の椅子いすに、ひと呼吸ぶん座った。

座った椅子の上で、両手を机の上に置いた。両手の内側に、円筒形のデバイスの青い光がふだんの距離で立ち、その表面ひょうめんに朝の薄明かりが薄く混じっていた。

混じった薄明かりの向こう側で、ケンはひと呼吸ぶん待っていた。

「父さん。冷蔵庫れいぞうこの紙、見た」

『君がゆうべ耳飾みみかざりを掛けて台所に立っていたぶんを、私は見ていた。書いている手元てもとも見ていた』

「ゆうべ、書いた」

『書いたぶん、見ていた』

「うん」

「ゆうべの数字、何」

『「1」』

「今日、書き換える。「0」に」

『「0」に』

『向こうがないことを、私はゼロと書く』

「書く」

「うん」


美月は椅子から立ち上がり、書斎のドアの外に出た。廊下の向こうに、台所の夜明よあけの薄い灰色はいいろが立っていた。

灰色のいちばん奥で、冷蔵庫の磁石じしゃくの下の紙の上の「1」が、ゆうべのぶん薄く朝の薄明かりに照らされていた。「1」、の上には、ゆうべ自分でつぶしたぶんの黒いおびが、ひと呼吸ぶん残っていた。

美月は紙を磁石の下から外し、「1」の横に、ふだんの太さのペンで「0」を書いた。

書いた「0」の形は、ふだんより小さく丸かった。書いた「0」の上の黒い帯の下には、半年はんとし前の自分の字は、もう一文字も残っていなかった。

紙を磁石の下に戻した。戻した「0」の向こう側で、廊下の奥の青い光は、ひと拍遅れたひと呼吸を、もう一度り返していた。

第56話 0の朝

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。