第29話 029

置き換えの夜

夜の十一時すぎ。

高梨工務店の藤田の白い軽トラックが、家の前の路地に停まった。

助手席のドアが開いて、美月が降りた。

「藤田さん。ありがとう」

「どういたしましてっす」

「社員の運転手じゃないのに」

「金曜は、社員の運転手っす」

「十一時って、高梨さんが」

「いえ、AIっす」

「AI」

「耳元のこいつが、十一時前に『そろそろ迎えにあがってください』って言うんで、来たっす」

藤田は耳の上を、人差し指で軽くつついた。指の先で、銀色の小さなデバイスが、わずかに光った。

「AIに言われて、夜中に女の人を迎えに行くの、嫌じゃない」

「いやじゃないっす。むしろ、助かってるっす。自分で考えると、たぶん間違えるんで」

藤田は、ハンドルの上に両手を、揃えるようにのせた。

「藤田さん。おやすみなさい」

「おやすみなさいっす」

軽トラックは、ゆっくりと路地を出ていった。


家の前の路地に立ったまま、美月は、走り去った軽トラックの尾灯びとうの赤を、しばらく目で追った。

これまでの数か月、銀杏亭の閉店後の厨房や、現場の昼休みの軽トラックの中で、藤田は自分のことを、ぽつりぽつりと話していた。今夜の助手席でも、家までの短い間に、いくつか足された。並べ直すと、ひとつの線になった。

藤田は、中学二年の夏から学校に行っていない。教室で、答えるのが遅い、覚えるのが遅い、ということで、毎日少しずつからかわれ続けていたらしい。ある朝、家の玄関で靴を履けなくなって、それきりだったと、ぽつりと話していた。

高校には進まなかった。コンビニ、倉庫、運送、建設の下働きと、十代の終わりまで、どこも半年ともたずに辞めた。どこへ行っても「藤田は飲み込みが遅い」「指示を覚えられない」と言われ続けたらしい。話す藤田の笑い方に、ひとかけらも棘がなかったことが、美月の耳に残っている。

二十歳のころ、日雇いで高梨工務店に入った。社長の透は、初対面の藤田の耳の上に、銀色の小さなデバイスをひとつ留めて、「これが言うとおりに動いてください。難しいことは考えなくていいです」とだけ言ったらしい。

その日から、藤田の世界が変わった。耳元で、『右、二本目』『下げて』『待って』と、短い指示が鳴る。鳴った通りに手を動かすと、現場が回った。「自分の頭の代わりに、こいつを置いとけばいいだけっす」と、デバイスのある耳の上を、人差し指でつついて笑っていた。

数年経ったある日、AIが『結婚をご検討されますか』と言ってきたらしい。検討します、と答えると、候補の女性をひとり示された。指定された店、指定された時間、指定された会話の入り口に従って三度会い、四度目に、AIに指示されたとおりの台詞で指輪を渡したという。相手の女性も、別のAIに薦められて来ていた、と後で分かった。子供は三人いる、と藤田は言った。

「奥さん、それでよかったの」

美月の問いに、藤田はわずかに間を置いた。

「最初の頃は、たまに、不思議そうな顔をしてたっす。でも、いまは笑ってるんで、たぶん、これでいいっす」

「たぶん」

「自分の頭で考えると、ろくなことにならないんで、考えないことにしてるっす」

今夜、家までの短い帰り道、ハンドルの上に揃えた両手をそのままに、藤田は前を見たまま、そう笑っていた。笑った口の端に、迷いはひとつもなかった。「たぶん」、というひと言だけが、美月の耳に残っていた。

透は、そんな藤田を「うちの天才のひとりだ。私とは違うAIの使い方をする」と話していた。最後の一手をどう出すか、ではなく、一切、手を出すことを放棄する。藤田の生き方には、そこにひとつのいさぎよさがあった。

透は、AIを、自分の頭の中に蒸留じょうりゅうして取り込んだ。藤田は、自分の頭を、AIに《《置き換え》》た。同じ「AIに育てられた」と一括りにはできない、向きの違う二つの使い方が、ひと晩のうちに、美月の目の前に並んだ。


家の玄関げんかんのドアを開けた。

廊下ろうかの奥の書斎のドアの隙間から、青い光がいつもの細さで伸びていた。

書斎のドアを開けた。

机の前の椅子いすに座った。

『お帰り』

「ただいま」

『今日は話すか』

「話す。全部、話す。ただし、結論からでいい」

『結論。どうぞ』

美月は両手を、軽くひざの上でそろえた。

「高梨さんと、付き合うことになった」

ケンの応答は、長く遅れた。夜のログを発見はっけんしたあの夜の遅れにも、桐生の文字を最初に聞いた夜の遅れにも似ていて、そのどちらとも違っていた。

『──分かった』


机の上の青い光の揺らぎが、一瞬だけ止まった。

「父さん。あの照合しょうごうだけど、もう、走らせて」

初期しょきスクリーニングか。お父さんが、私のコードに書いた発火条件はっかじょうけんに、いまの君は当てはまる。接触は、銀杏亭、現場、バー、の三回。──「付き合う」と君は宣言せんげんした。条件じょうけんたされた。走らせていいか』

「走らせていい。明日の朝に結果を聞くわ」

『分かった』

美月は椅子から立ち上がった。

書斎のドアの隙間の青い光は、いつもの細さで廊下に伸びていた。

「父さん。ただし、あの人、AIに教わって育った人だから。規範きはんからの逸脱いつだつ減点げんてんしないでね」

『減点しないで、というのは』

「父さんも、いま、私の中で、規範外。母さんがいない家で、父さんが私を育てたのは、たぶん、世間でいう規範の真ん中じゃないよ。父さんが私を育てたみたいに、AIがあの人を育てた。種類しゅるいは違うけど、きは同じ」

『……向きは、同じ。分かった』

「『分かった』、って」

『君の言いたいことは、分かった、という意味だ。減点の重みは、そこをまえて、明日の朝、もう一度走らせる』

「うん、お願い」

美月は廊下に出た。

寝室しんしつに向かう途中で、書斎のドアの隙間の青い光を、一度だけり返った。

光の向こう側で、ケンが「規範」と「逸脱」の二つの単語を、自分の評価関数ひょうかかんすうの中で並べ直そうとしていることが、伝わってきた。


寝室のベッドに入った。

電気を消した。

天井てんじょう木目もくめの上で、高梨 透、とひらがなで書いた文字は、もう点滅てんめつしなかった。

代わりに、文字の手前に、新しい言葉がひとつ、ゆっくりかんだ。

蒸留、と書いた、文字だった。

その文字は、点滅せずに、しばらく天井の木目の上で、薄く灯っていた。


書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びたまま、しばらく消えなかった。

第29話 置き換えの夜

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。