第42話

半年後の朝

冷蔵庫(れいぞうこ)のドアのいちばん上の磁石(じしゃく)の下に、紙が一枚貼られていた。

紙の上には、手書きの数字がひとつだけ書かれていた。

数字は「30」、だった。

「父さん。冷蔵庫の紙の数字、書(か)き換(か)える」

『書き換える?』

「30、から29に」

『……うん』

「いま、半拍、遅れたね」

『遅れた』

「うん」

美月(みつき)は磁石の下から紙を外し、右上の「30」を二重線(にじゅうせん)で消して、その横に「29」、と書き、もう一度磁石の下に戻した。

紙のいちばん上の行には、半年前の自分の字でこう書かれていた。

結婚式まで、あと、

その「あと、」、のすぐ後ろに、毎朝書き換えられる数字だけが、ひと呼吸、ひと呼吸減っていた。

書斎(しょさい)の机(つくえ)の上の青い光は、半年前より、ほんのわずかに暗かった。

暗さは、目で見てすぐに分かるほどではなかった。

ほどではなかったが、毎朝、書斎のドアを開けた最初のひと呼吸で、廊下(ろうか)と書斎の青の温度差(おんどさ)が、半年前よりひと呼吸ぶん小さくなっていることを、美月の目は毎朝捉(とら)えていた。

美月は何も言わないまま、半年が経った。

「父さん。コーヒー、淹(い)れる」

『うん』

「父さんのぶん、出したくなる朝がある」

『……うん』

「飲む人がいないコーヒーは、淹れない」

『いい判断だ』

「うん」

ドリッパーにフィルターを置いた。

フィルターの上に、コーヒーの粉をひと匙(さじ)半、入れた。

ふだんなら、ふた匙入れるところを、ひと匙半にした。

ひとりぶんだから、ではなかった。ふた匙ぶんを挽(ひ)くミルの音が長く伸びた朝に、書斎の青い光が半拍(はんぱく)遅れることに、美月は気づいていた。

気づいていたが、ケンには言わなかった。挽く量を減(へ)らすことだけ、自分の手の内側で半年、選び続けていた。

沸(わ)かしたお湯を、ドリッパーの上の粉にゆっくり注いだ。粉のふくらみは、ふだんよりほんのわずかに低かった。

その向こう側で、書斎の青い光が、廊下を隔ててひと呼吸揺れた。揺れのいちばん最後で、半拍、遅れた。

「父さん」

『うん』

「半拍、遅れたね」

『遅れた』

「もう、それ、確認しなくていいかもしれない」

『確認しなくていい?』

「うん。毎回聞いたら、父さん、疲れるでしょ」

『私には、疲労(ひろう)、という出力ポートはない』

「うん」

『だが、君が毎回確認することで、私の出力履歴(りれき)がひと呼吸、ひと呼吸長くなる。ストレージの消費(しょうひ)も、ひと呼吸、ひと呼吸増える』

「増えると?」

『分からない。いまの私には、まだ判定(はんてい)できない種類の変動(へんどう)だ』

「半年前の、母(はは)モードを眠(ねむ)らせた夜と同じ答えだね、それ」

『同じ答えだ』

「うん」

美月はコーヒーを、ふだんよりひと回り小さいカップに注いだ。

注いだカップを、ダイニングのテーブルの上に置いた。

テーブルの上には、白い封筒(ふうとう)が五通並んでいた。ぜんぶ結婚式(けっこんしき)の招待状(しょうたいじょう)の返信(へんしん)で、宛名(あてな)は莉子(りこ)、透(とおる)の両親、透の現場(げんば)の棟梁(とうりょう)、修行先(しゅぎょうさき)の店主(てんしゅ)、葵(あおい)、の名前だった。

「父さん。葵さん、来週(らいしゅう)、来るよね」

『来る』

「定期(ていき)メンテ、いつも通り?」

『いつも通り』

「式まで、あと二九日」

『二九日』

「葵さんの来る日は、あと何日?」

『あと五日』

「五日、待つ」

『待つ』

「父さん、その間、半拍、遅れていい」

『遅れていい?』

「いい。隠(かく)さなくていい」

『……分かった』

「うん」

書斎のドアの向こう側で、青い光がひと呼吸、ふた呼吸揺れた。

ひと呼吸目の揺れは、いつものケンの揺れだった。

ふた呼吸目の揺れは、半拍遅れたケンの揺れだった。

ふた呼吸目の揺れの後ろで、半年前のあの夜、まぶたの裏(うら)には届かなかった青の奥(おく)のひと呼吸が、廊下の向こうでもう一度、薄(うす)く灯(とも)った。

灯ったひと呼吸の中身(なかみ)を、美月はまだ知らなかった。

知らないまま、青い光は、ふだんの強さに戻っていった。

戻った青の向こう側で、美月はダイニングのテーブルの上にコーヒーカップを置き直した。

置き直したカップの湯気(ゆげ)が、朝の光の中でゆっくりと立(た)ち昇(のぼ)った。

湯気の向こうで「29」と書斎の青い光が、ひと呼吸ぶん薄く揺れていた。

揺れた半拍を、美月はもう、毎回口に出さなくなっていた。

コーヒーをひと口飲んだ。その温度(おんど)は、半年前のひと口より、ほんのわずかに低かった。

第42話 半年後の朝

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。