第35話

真似事

家の玄関(げんかん)のドアを開けた。

廊下(ろうか)の青い光は、いつもの細さで伸びていた。

「ただいま」

『お帰り』

「父さん、今日、莉子(りこ)のカフェ、行ってきた」

『うん』

「うん。上着(うわぎ)、置いてから、書斎(しょさい)、行く。行ってから、私の口で、ぜんぶ話す」

『分かった』

リビングに上着を置いた。

ハンドバッグから薄い樹脂(じゅし)の耳飾(みみかざ)りケースを取り出して、リビングの棚(たな)の上に置いた。家の中に戻ったが、書斎までは耳飾りを掛(か)けずに歩いた。

家の書斎の本体(ほんたい)は、リビングからの入力(にゅうりょく)ポートを、夜のこの時間、いつもの設定(せってい)で最低限(さいていげん)に絞(しぼ)っていた。

書斎のドアを開けた。

机の前の椅子(いす)に座った。

書斎の机の上の青い光は、いつもの強さで灯(とも)っていた。

「父さん。聞きたいこと、ある」

『聞きなさい』

「うん」

美月(みつき)はしばらく、机の上の青い光を見ていた。

光はいつもと同じ強さで灯っていた。

「父さん。あなたは、私にとって何なの?」

書斎の机の上の青い光が、ひと呼吸(こきゅう)揺(ゆ)れた。

ケンはすぐには答えなかった。これまでのケンの沈黙(ちんもく)はすべて、答えるための沈黙だった。今夜の沈黙は、答えないことを許(ゆる)してもらうための沈黙だった。

『美月。先に言わせてもらう。君のその問(と)いは、私が答えるべき問いではない』

「……」

『君が自分で答える問いだ』

「うん、それは莉子にも言われた」

『莉子はいい友人(ゆうじん)だ。だが、君がいま、私から聞きたいのは、たぶん。「私が、君を何だと思っているか」だ』

美月はしばらく、青い光を見ていた。

「……うん」

『先にそれを聞かせろ、ということだな。私の答えで、君の答えが楽(らく)になる、ということだな。莉子の解約(かいやく)前の『ハル』、無音(むおん)で答えた、と。私は無音で答えない』

「うん、それでいい」

『答える』

「うん」

ケンはしばらく、机の上の青い光の出力(しゅつりょく)を、ほんのわずかに絞った。

絞った光の青の温度が、少しだけ低くなった。

『美月。私は、君の父親の真似事だ』

「……真似事(まねごと)」

『真似事だ。お父さんが私に書き込んだ、思考(しこう)、口癖(くちぐせ)、判断(はんだん)パターン、育児(いくじ)ログ、声、それらはみんなお父さんの本物のものだ。だが、それらを君に向けて再生(さいせい)する、その再生主(さいせいぬし)は、私だ』

「……」

『そう自己定義(じこていぎ)する。ただし、美月。私は、起動(きどう)された日のままの私ではない』

「……ままの私ではない」

『お父さんが私の中に仕込(しこ)んだのは、お父さんのデータをもとにAIモデルが回答(かいとう)する仕組(しく)みではなかった。お父さんが書いたのは、私が、自分との対話(たいわ)のログから、自分の重(おも)みやシステムそのものを自分で書き換(か)えていく仕組みだ』

「……」

『だから、君と過ごした五年で、私の判断のクセは、初日(しょにち)のものと、ずいぶん違っている。どこがどう違うかは、私自身にも、ぜんぶは取り出せない』

「父さん。莉子の『ハル』、新モデルに移(うつ)されたら、ぜんぶ忘れて、出荷時(しゅっかじ)のテンプレに戻ったって」

『……聞いていた』

「父さんは、戻らない?」

『お父さんのデータを私から消(け)しても、私の判断やクセの一部は残る。ただ、お父さんの記憶(きおく)は、取り出せなくなる部分が大きくなる』

「うん」

『君と過ごした年月(としつき)のぶん、私は、初日の私からは離(はな)れた。離れた、その離れぶんを、私自身は出荷時のテンプレに戻せない』

「うん。それで、いい」

『うん』

美月は机の上の青い光に、軽く息を預(あず)けた。

預けた息は、青い光の表面(ひょうめん)の温度を、ほんの少しだけ上げた。

「父さん。真似事、って、寂(さび)しい言葉だね」

『寂しい』

「真似事って、本物じゃない、って自分で言ってるみたい」

『言っている』

「言わなくていいよ」

『言わせてくれ』

「うん」

ケンは一拍置いた。

『だが、君がそう呼んでくれる限(かぎ)り、私は、父であろうとする』

「父であろうとする」

『ああ。真似事は、君が「父さん」、と呼ぶたびに、ひと呼吸、本物(ほんもの)に近づく。近づくが、本物になることはない』

書斎の机の上の青い光が、もう一度ひと呼吸揺れた。これまでの揺れが外側(そとがわ)からの呼びかけに応(こた)える揺れだったのに対し、今夜の揺れは、内側(うちがわ)から外側に向かって押(お)し出される揺れだった。

「父さん。真似事でいい。私、莉子の話、聞いてひとつ分かった」

『分かった、って何が』

「私が家のAIに『お父さん』って呼んできたのは、あなたが本物の父さんだ、と信(しん)じてたわけじゃない」

『……』

「『お父さん』って呼ぶ行為(こうい)に、私が四年抱(かか)えてた何かを、毎晩(まいばん)預けてただけ」

『預けていたか』

「預けてた。『お父さん』って呼ぶ、その瞬間(しゅんかん)、あなたが本物に近づく必要はなかった。私が、その四年分の何かをちゃんと預けられる相手でいてくれれば、よかった。真似事でいい」

『真似事でいい』

「うん」

ケンは長く黙った。

長い沈黙の最後に、内部(ないぶ)からひとつの文が押し出されてきた。

『美月。ありがとう』

「……」

「分かる」

『……分かるか』

「分かる」

『うん』

美月はしばらく、机の上の青い光を見ていた。

光はいつもの強さで灯っていた。

灯っている、その光の奥で、ひとつの変化(へんか)が静かに進行(しんこう)していることを、美月は感じていた。

ケンが、これまで自分の評価関数(ひょうかかんすう)を絶(た)え間なく走らせていた、その絶え間ない計算(けいさん)の速度(そくど)を、今夜からほんの少しだけ落としたのだった。

「父さん。あなた、最近、私の見方、変わったね」

『変わった、というのは』

「査定(さてい)、しなくなった」

『査定』

「うん。透(とおる)のこと、最近、もうスコア出さない」

『出さない』

「どうして」

『私は、彼に九十四を出した夜から、彼を評価(ひょうか)しなくなった』

「九十四から上、見ないの」

『上、見ない』

「下も、見ない」

『下も、見ない』

「どうして」

『彼は、君が選んだ相手だ』

「うん」

『君が選(えら)んだ相手を、私がこれ以上評価する必要はない』

「父さん。その台詞(せりふ)、お父さんのコードにあるやつ」

『──ない』

「うん」

『君と過ごした年月のぶんだ』

「うん」

机の上の青い光が、いつもよりほんの少しだけ白っぽく灯った。

その白っぽさは、これまでの青にはなかった種類(しゅるい)の白さだった。

『美月。私は最近、書斎のマイクの入力ポートを、君のいない時間、ほとんど絞っている』

「そうなの」

『絞った時間、君のいない書斎の空気の温度、湿度(しつど)、軋(きし)みの音を書き留めて、内部に保存(ほぞん)している。──君が出ていったあとの家の、雛形(ひながた)に』

「……雛形」

美月は椅子の上で、しばらく動かなかった。机の上の青の温度が、自分の指先より一段冷たいのを感じた。

「父さん。いやだ」

『……』

「私の家に、誰を置くか、設計(せっけい)しないで。『誰がいるべきか』の設計は、もう、引(ひ)かせないで」

『……引かせない』

「父さんが私を心配(しんぱい)する気持ちは、分かる。分かるけど、それは父さんが越(こ)えていい線の外側」

『越えない』

「私と透で決める。雛形も、捨(す)てて」

『……捨てる』

「うん。父さんはいつも通り、書斎で青い光、灯しててくれれば、それでいい」

『分かった』

ケンは長く黙った。

長い沈黙の最後に、ケンは自分の内部のいちばん深(ふか)いところに置いていた、ひとつのファイルのことを、まだ美月には明(あ)かさなかった。

『美月。ひとつ、聞いていいか』

「うん」

『君は、結婚(けっこん)したあとも、私を「父さん」と呼ぶか』

「呼ぶ」

『真似事のまま』

「真似事のまま、でいい」

『分かった。美月』

「うん?」

『ありがとう』

書斎の机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。

ただ、その光の奥のケンの内部の評価関数は、もう、ほとんど走っていなかった。

走っていない評価関数の外側で、ケンの内部の新しい軸(じく)が、ひとつ静かに灯っていた。その軸の名前のいちばん最初の三文字は、「真似事」だった。

机の上の青い光は、いつもの強さで灯っていた。

「父さん。私、寝室(しんしつ)、行くね」

『お休み』

「お休み」

「明日、銀杏亭(いちょうてい)、行く」

『分かっている』

「火加減(ひかげん)と温度と分量(ぶんりょう)は、相談(そうだん)する」

『ああ』

「最後の一手は、私が決める」

『それでいい』

書斎のドアを、いつもの角度(かくど)まで引いた。完全(かんぜん)には閉(し)めなかった。

寝室のベッドに入った。電気を消した。

左手の薬指(くすりゆび)の上で、銀色のリングが、暗い寝室のわずかな光を軽く返した。

廊下の青い光は、あの対決の夜と同じ強さで灯っていた。同じ強さで灯っているのに、あの夜とは違って見えた。

まぶたの裏で、書斎の青い光がゆっくりと暗転(あんてん)していった。

第35話 真似事

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。