第46話

透にも莉子にも言えない夜

葵(あおい)は夜の八時過(す)ぎに帰った。

帰った葵の靴(くつ)の向(む)きを、玄関(げんかん)でひと呼吸、見送(みおく)った。

見送った靴の向こう側のドアが、ひと呼吸軽(かる)く閉(し)まった。

閉まったドアの内側で、家の空気(くうき)はひと呼吸ぶん静(しず)かになった。

静かになった空気のいちばん奥で、書斎の青い光は、半拍遅れたひと呼吸を、もう一度繰り返していた。

夕食(ゆうしょく)は食べなかった。

冷蔵庫(れいぞうこ)のドアを開けて、ひと呼吸ぶん立った。

立ったまま、何も取らずにドアを閉めた。

閉めたドアの上の磁石(じしゃく)の下の紙の上の数字は、まだ「24」、のままだった。

「24」、のすぐ下の白い余白(よはく)を、美月(みつき)はひと呼吸ぶん見つめた。

見つめた余白の上に、何も書き加(くわ)えなかった。

リビングのソファに座(すわ)った。

座ったソファの上で、両膝(りょうひざ)をひと呼吸抱(かか)えた。

抱えた両膝の上に、自分の頬(ほお)をひと呼吸置いた。

置いた頬の向こう側で、書斎(しょさい)のドアの隙間(すきま)から青い光が、廊下(ろうか)の向こうまで伸(の)びていた。

伸びた青のいちばん最後で、ひと呼吸、ふた呼吸揺れた。

揺れたふた呼吸目が、半拍遅れた。

遅れた半拍を、美月はもう、口に出さなかった。

スマートフォンを手に取り、トーク・アプリを開いた。

開いた画面の上に、莉子(りこ)と透(とおる)のトークルームが、上から二番目と三番目に並(なら)んでいた。

莉子のトークルームを、ひと呼吸開けた。

開けたトークルームのいちばん下の入力欄(にゅうりょくらん)に、ひと文字ぶん、カーソルが点滅(てんめつ)した。

点滅したカーソルの上で、美月はひと呼吸ぶん、何も打(う)たなかった。

打たないまま、ひと呼吸、ふた呼吸置いた。

置いたふた呼吸のいちばん最後で、入力欄のいちばん上の「莉子」、の名前を長押(ながお)しした。

長押しした画面の上に灯(とも)った「通話(つうわ)」、のボタンに人差(ひとさ)し指の爪(つめ)をひと呼吸近づけ、結局(けっきょく)、押(お)さずに横にずらして画面を閉じた。

閉じた画面の上で、莉子のトークルームはまた、いちばん上の欄に戻った。

戻った欄のすぐ下の欄に、透のトークルームがあった。

透のトークルームを開け、入力欄のカーソルの上で、美月はひと呼吸ぶん、何も打たなかった。

打たないまま、自分の頭の中でこう言ってみた。

ねえ、透。家にお父さんのAIがいて、式の翌日(よくじつ)、止まる。

頭の中の透は、ひと呼吸置いて、こう言いそうだった。

ああ、そうか。じゃあ、翌日、お父さん、最後の朝食(ちょうしょく)、作(つく)ろうな。

美月は両膝の上で、声を上げずに笑(わら)った。笑ったいちばん最後で、両目の奥(おく)が熱(あつ)くなった。ジーンズの生地(きじ)に押(お)しつけた目は、まだ涙(なみだ)にはならなかった。

頭の中の莉子は、ひと呼吸置いて、こう言いそうだった。

止(と)める方法(ほうほう)、ないんでしょ。なら、相談(そうだん)すること、ないじゃん。

そして声を低(ひく)くして、こう続(つづ)けるはずだった。

……一緒(いっしょ)にいてほしい、なら、それは別(べつ)。

「別」、の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、両膝の上のジーンズの生地を、もう一度握(にぎ)り直した。

握り直した生地のいちばん奥で、結婚(けっこん)を打(う)ち明(あ)けたあの夜の莉子の声が、ひと呼吸ぶん薄(うす)く灯った。

灯った声は、こう言っていた。

私も、画面の向こうの誰(だれ)かに本気(ほんき)で救(すく)われた側(がわ)だから。

「側だから」、の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、目の奥をもう一度閉(と)じた。

閉じた目の奥のいちばん最後で、莉子はもう、自分のぶんの結婚式(けっこんしき)の招待状(しょうたいじょう)の返信(へんしん)を、ひと呼吸ぶん机(つくえ)の上で書いているはずだった。

スマートフォンを、また手に取った。

取ったスマートフォンの画面の上で、莉子のトークルームを、もう一度開けた。

開けた入力欄に、ひと呼吸ぶんこう打った。

莉子、今度(こんど)、お茶、しよ。

打った文字を、ひと呼吸ぶん見つめた。

見つめた文字のいちばん最後で、ひと呼吸ぶん送信ボタンを押した。

押したボタンの上で、画面の上のメッセージは、莉子のぶんのトークルームにひと呼吸ぶん上がっていった。

上がったメッセージのすぐ下に、莉子の既読(きどく)の印(しるし)がひと呼吸ぶん灯った。

灯った既読のすぐ下に、莉子の返信がひと呼吸ぶん灯った。

灯った返信は、こう書かれていた。

いつでも。

「いつでも」、のすぐ下にもう一行灯った。

何も聞かない種類(しゅるい)のお茶でもいい。

「いい」、のいちばん最後のひと文字の上で、美月はひと呼吸ぶん両目を閉じた。

閉じた目のいちばん奥で、両目から涙(なみだ)がひと粒(つぶ)ぶん零(こぼ)れ、両膝の上のジーンズの生地の上に薄く滲(にじ)んだ。

透にはまだ、何も打たなかった。打たないまま、スマートフォンをテーブルの上に伏(ふ)せた。

「父さん。今夜、何も相談しない」

『相談しない』

「使(つか)い切(き)っていい。残(のこ)してもしょうがない」

『……うん』

「半拍、遅れていい」

『遅れていい』

「うん」

卓上(たくじょう)の時計(とけい)の針(はり)が、午前(ごぜん)零時(れいじ)を過ぎた。結婚式まで、あと二三日。美月はソファから立ち上がり、寝室(しんしつ)には向かわず、廊下を書斎のほうに向かった。

向かった廊下のいちばん奥で、青い光が半拍遅れて、ひと呼吸揺(ゆ)れた。揺れた半拍の向こうで、書斎のドアの向こう側にケンが待(ま)っていた。

第46話 透にも莉子にも言えない夜

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。