第15話

隠しディレクトリ

机の上の、黒い小さな箱。

美月(みつき)は両手でそれを持ち上げた。

空気しか入っていないのに、重かった。

ケースの側面(そくめん)に、白い小さな紙のラベルが一枚貼(は)られていた。

ラベルには、父の文字で三文字だけ書かれていた。

「yui」

母の名前だった。

漢字(かんじ)では、結衣(ゆい)、と書く。だが父は、ファイル名のような場所ではいつも、母の名前をローマ字で書いた。それは美月も知っていた。

美月の指は、ラベルの上で止まった。

止まったまま、しばらく、その小さな三文字だけを見ていた。

机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ていた。

ケンはスリープしていた。今は聞いていない。聞いていないはずだった。

葵(あおい)は九十分は戻らない。

机の右の奥の方に、父のノートPCがずっと置いたままになっていた。父が亡くなってから、葵が月に一度、通電(つうでん)だけは保(たも)ってくれていた。電源を入れると、ファンの低い音が立ち上がった。父の見慣れたログイン画面。

ログインのパスワードは知っていた。父が生前、自分で教えてくれた。デスクトップが開いた。母と五歳の美月と父の家族写真が、壁紙(かべがみ)として迎えた。

USBの端子にケースを差し込むと、画面の右下に小さな通知(つうち)がひとつだけ浮かんだ。

暗号化(あんごうか)されたボリューム。パスワードを入力してください。

美月はしばらく画面を見ていた。

父のパスワードの癖(くせ)は知っていた。父は、誕生日(たんじょうび)や命日(めいにち)のような、自分や家族の節目(ふしめ)の日付を、四桁(よんけた)ずつ組み合わせて使った。

「私が忘れたときに、私が思い出す時間を、機械に区切(くぎ)られたくない」と父は言っていた。

一回目。父の誕生日と、自分の誕生日。通らなかった。

二回目。父の誕生日と、母の誕生日。通らなかった。

三回目。母の誕生日と、母の命日。通った。

通った瞬間に、美月の指はキーボードから離れた。

ボリュームの中身が開いた。

ファイルマネージャの画面の中に、ディレクトリがいくつか並んでいた。

「papers_archive」「lectures」「miscellaneous」──研究者(けんきゅうしゃ)の私物(しぶつ)にいかにも入っていそうな名前のフォルダ。

中を順に開けてみた。

古い論文(ろんぶん)の下書き。学会(がっかい)で使ったスライドの残骸(ざんがい)。学生から送られてきた相談(そうだん)メールの抜粋(ばっすい)。

どれも、父らしい。父らしいだけで、それ以上のものは何も入っていなかった。

美月は一度、ファイルマネージャを閉じかけた。

閉じかけて、止めた。

ファイルマネージャの上のメニューに、見覚(みおぼ)えのある項目(こうもく)がひとつだけあった。

隠(かく)しファイルを表示(ひょうじ)

父が、かつて一度だけ、美月のノートPCを横から覗(のぞ)き込んで、笑いながら言ったことがあった。「自分のパソコンでは、隠しファイルを表示する設定はいつも切らない。隠しているものを、自分でまで見えなくしておくのは、自分に対して不誠実(ふせいじつ)だからね」と。

美月は、その項目にチェックを入れた。

画面の中で、新しいフォルダがひとつ、淡(あわ)い色合いで浮かび上がった。

ドット記号(きごう)で始まる、隠(かく)しディレクトリ。

「.yui_logs」

開いた。

中に、音声(おんせい)ファイル。膨大(ぼうだい)な音声ファイル。

ファイル名はすべて「yui_log_」で始まっていた。続く文字列は日付。最も古いものは、母が亡くなって少しした頃の日付。最も新しいものは、父が亡くなる二週間前。

古い側のいくつかのファイルでは、ファイル名に刻(きざ)まれた日付と、ファイル自体の更新(こうしん)日時(にちじ)が、ずいぶん離れて並んで光っていた。同じファイルに二つの時間が書かれていることを、美月はそのときは深くは考えなかった。

合計(ごうけい)の数は、画面の右下のステータスバーに表示されていた。

千を超えていた。

いちばん古いファイルを、まず開く。

それがたぶん、最初に自分が聞かなければいけないものだった。

美月は椅子(いす)の背に深くもたれた。

机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ているような気がした。気のせいだったが、美月はそちらに軽く頭を下げた。

「ごめん。──父さんのものを、開けるね」

「父さん」と口にした言葉が、自分の想定(そうてい)よりも少しだけ自然に口から出ていた。それを美月は、自分でも奇妙(きみょう)に思いながら、いちばん古い音声ファイルの再生(さいせい)ボタンに、指を置いた。

第15話 隠しディレクトリ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。