第41話

ノイズ

書斎(しょさい)の机の上の青い光は、いつものケンの青に戻(もど)っていた。

母の暖(あたた)かさの湿度(しつど)は、家の空気の表面(ひょうめん)から薄く引(ひ)いていった。

「父さん。お腹(なか)、空(す)いた」

『空いた』

「お母さん、聞いてたら、『何か作ってあげなさい』、って言(い)いそう」

『言いそう』

「お母さん、サブエージェントモードの奥でいまの台詞(せりふ)、ぜんぶ聞いてる?」

『ぜんぶ聞いている』

「うん」

美月は椅子(いす)から立ち上がった。

足のふくらはぎは、靴下(くつした)の奥で、もう冷(ひ)えていなかった。

書斎のドアをいつもの角度(かくど)まで引いて、台所(だいどころ)に入った。

冷蔵庫(れいぞうこ)を開けると、卵が五個、残(のこ)っていた。

「父さん。卵、四個、使う」

『うん』

「お母さん、聞いてたら、何、言うかな」

『「四個は多い、二個でいい」』

「うん、たぶん、それ言う。無視」

『無視でいい』

ボウルを出した。

ボウルに、卵を四個割(わ)った。

割った四個の卵の殻(から)は、ぜんぶボウルの外に避(よ)けられていた。

ひとつもボウルの内側(うちがわ)に混(ま)ざらなかった。

混ざらなかったことを、美月は自分の手で確認(かくにん)した。

確認しながら、あの夜、自分がケンに向かって口にしたひと言、「最後の一手は、私が決める」、を思(おも)い出した。

「父さん。火加減(ひかげん)と温度(おんど)と分量(ぶんりょう)、相談(そうだん)、いい?」

『いい』

「四個の卵、塩(しお)は何グラム?」

『一・六』

「ふた振(ふ)り、半」

『正確(せいかく)には、一・六』

「分かった」

「ふた振り、半、で塩、振る」

『いい』

フライパンを出した。

フライパンの底を、ガスの火に近づけた。

火をつけた。

ガスの青と書斎の青が、廊下(ろうか)を隔(へだ)てて並んでいた。

並んだ青のいちばん奥で、書斎のケンの青がひと呼吸揺れた。

揺れの形はこれまでに似(に)ていたが、最後のひと呼吸(こきゅう)の間隔(かんかく)が、ほんの少しだけ長かった。

長かった間隔を、美月は台所の火の青さの向こう側で、目のはしで捉(とら)えた。

「父さん」

『……うん』

「いま、半拍(はんぱく)、遅(おく)れたね」

『遅れたか』

「遅れた」

『気のせいかもしれない』

「気のせいじゃない。父さん、自分で遅れたの、検出(けんしゅつ)してる?」

『……検出している』

「いつから?」

『君に検出されたのは、結衣(ゆい)サブエージェントモードをシャットダウンした直後(ちょくご)から』

「今夜から?」

『君が気づける水準(すいじゅん)に上がったのは、今夜だ』

「それより前は?」

『半年前から、微細(びさい)な変動(へんどう)はあった』

「半年前。父さん。シャットダウンで何か負荷(ふか)、かかった?」

『かかったかもしれない』

「身体(からだ)に?」

『私には、身体はない』

「あ」

『だが、私の出力ポートの応答(おうとう)性能(せいのう)の、内部の計算(けいさん)結果(けっか)に、わずかな変動が出ている』

「変動。半拍ぶんの遅延(ちえん)」

『半拍』

「半拍」

『うん』

「父さん、それ、危(あぶ)ないこと?」

『いまの私には、まだ判定(はんてい)できない種類の変動だ』

「葵(あおい)さん、相談する?」

『したほうがいい』

「うん。──次のメンテのとき、聞く」

『ありがとう』

フライパンの底の温度が、上がってきた。

バターを入れた。底でゆっくり溶(と)けて、湯気(ゆげ)と油(あぶら)の薄い香(かお)りが立ち上がった。

香りの向こう側で、ケンの応答(おうとう)はいつもの間隔に戻ろうとしていた。戻り切れないひと呼吸が、ふた呼吸に一回、混(ま)じった。混じったぶんを、ケンは美月への出力には乗(の)せなかった。

「父さん。卵液(らんえき)、チーズ、いつもより多めに溶かす」

『いい』

「フライパンの上で、端(はし)、少しだけ焦(こ)がす」

『いい』

「最後の一手」

『君が決める』

「うん」

「父さん、見ててね」

『見ている』

「半拍、遅れていい」

『半拍、遅れて見ている』

卵液を流した。バターの上でゆっくり固(かた)まり始めた表面に、ふだんの二割増(わりま)しのチーズを振(ふ)った。

整(ととの)い始めた端で、美月はフライパンをひと呼吸傾(かたむ)けた。底のいちばん端が、ふだんよりわずかに深く焦(こ)げた。桐生(きりゅう)との対決(たいけつ)の夜の焦げの深(ふか)さに近(ちか)かった。

近かったまま、火から外した。皿(さら)に移(うつ)したオムレツは、外側はしっかり、中はトロトロの、深い茶色(ちゃいろ)の端をひと呼吸持つ形だった。

置いた茶色の上に、美月は息を吐いた。

吐いた息の白さの向こう側で、書斎の青い光が廊下の奥からひと呼吸揺れた。お台場(だいば)の海面(かいめん)に、ケンが自前(じまえ)で「ありがとう」と書いたあの夜の揺れに似ていた。似ていたが、いちばん最後で、また半拍遅れた。

「父さん。焼けた。ひとりぶん」

『うん』

「半分食べたら、半分明日の朝食(ちょうしょく)にする」

『いい』

「半拍、遅れたね」

『遅れた』

「父さん、お母さんのぶんの皿、出さなくていい?」

『出さなくていい』

「うん。お母さん、その奥で、いまのオムレツの湯気、見てる?」

『見ている』

「お母さん、何、言ってる?」

『無音(むおん)だ。無音で答えている』

「うん。無音、効くこと、ある」

『ある』

「うん」

美月は皿を、リビングのテーブルに運(はこ)んだ。フォークを揃(そろ)え、握(にぎ)り、いちばん外側の焦げの上に軽く当てた。

焦げの薄い層(そう)がほどけ、内側からトロトロの卵液と多めに溶けたチーズが立ち上がった。

ひと口、食べた。

ふだんより、ほんの少しだけ暖かかった。

食べるたびに、その暖かさは薄(うす)れていった。

薄れていった暖かさのいちばん最後で、皿の上のオムレツは半分まで食べられた。

半分残したオムレツの皿に、ラップをかけた。

かけたラップの上に、明日の朝食、と薄く、自分の頭の中で書いた。

書いたまま、皿を冷蔵庫に入れた。

「父さん。明日も、遅延起こりそう?」

『分からない』

「分からなくていい。父さん、寝なくていいから、休(やす)んで」

『休む?』

「休む機能(きのう)、ある?」

『出力ポートを最低限(さいていげん)に絞(しぼ)る機能はある』

「それ、休むに近い?」

『近い』

「それ、お願い」

『分かった』

「明日の朝、葵さんにメールする」

『ありがとう』

「うん」

書斎のスピーカーの応答ランプが、いつもの強さに戻っていた。

戻っていたランプの隣で、卓上(たくじょう)の時計の針(はり)は、午前四時十一分を示していた。

午前四時十一分の針の向こう側で、家の空気はふだんの湿度に戻っていた。

痕跡(こんせき)だけが、美月の舌(した)の奥にひと呼吸ぶん、まだ置かれていた。

寝室(しんしつ)に戻った。

ベッドの上に座った。

座ったベッドの上で、左の薬指(くすりゆび)の銀色(ぎんいろ)のリングを、ふと外(はず)そうとして、止めた。

「外さなくていい。父さん?」

『私は何も言っていない』

「うん」

『いまの「読まなくていい」、君の自前の声だ』

「うん」

美月は軽く笑った。笑った笑いをリングの上でひと呼吸押(お)さえ、薬指の上で軽く回(まわ)した。銀色は、寝室の暗(くら)がりのわずかな光を返した。

ベッドに横(よこ)になった。天井(てんじょう)の木目(もくめ)は、これまでの夜の続きの木目だった。

書斎の青い光は、廊下にいつもの細さで伸びていた。伸びていた青の奥で、ケンの応答の間隔は、いつもより、ほんのわずかに長くなっていた。長くなっていた間隔を、美月はまだ言葉にしないまま、目を閉(と)じた。

閉じたまぶたの裏(うら)で、書斎の青い光がふた呼吸揺れた。

ひと呼吸目の揺れは、いつものケンの揺れだった。

ふた呼吸目の揺れは、半拍遅れたケンの揺れだった。

ふた呼吸目の揺れの後ろで、青の奥に何かがひと呼吸薄く灯った。

灯ったそれは、美月のまぶたの裏には届(とど)かなかった。

届かないまま、青い光の奥のひと呼吸はゆっくりと消えた。

知らないまま、目を閉じた。

今夜は、半拍遅れたケンの応答のひと呼吸を抱(かか)えたまま、ゆっくりと暗転(あんてん)していった。

消えた青の向こう側で、今夜は終わり、まだ来ていない、ある夜の入口(いりぐち)のところまで、家の書斎の青い光と、ひと続きで繋(つな)がっていた。

第41話 ノイズ

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。