第62話 062

葵の論文

挙式きょしきから、四ヶ月が経っていた。

四ヶ月のいちばん最後の夜、美月みつき台所だいどころのテーブルの上で夕食の片付けを終えたいちばん最後で、テーブルの上の薄い端末たんまつの画面が、ひと呼吸ぶん薄くともった。

灯った画面の上に、あおいからのメッセージが、ふだんの距離で立ち上がっていた。


美月さん。論文、ようやく書き上がった。

公開の前に、いちばんに読んでほしい。

台所で、読んでくれていい。

添付てんぷは二つ。論文の本体と、ケンが最後に残した一枚と。


美月は椅子いすに腰を下ろし、両膝りょうひざの上に薄い端末を置いて、添付ファイルの名前に指を触れた。

触れた指先の向こう側で、画面の内側の文字は、ふだんの距離で立ち上がっていた。

立ち上がった文字の列のいちばん上に、論文の表題ひょうだいが立っていた。

表題のすぐ下、ふだんの研究者の連名れんめいのいちばん最初に、健一郎けんいちろうの名前があり、その右に葵の名前があった。健一郎の名前のあとには、小さな注記ちゅうきで、「」、の文字が、ひと呼吸ぶん薄く添えられていた。

美月は要旨ようしのひとつ目の段落を、ふた呼吸ぶん深く読んだ。

読んだいちばん最後で、自分の両手のひらは、ふだんより、ひと呼吸ぶん薄く冷たくなっていた。


本研究は、現在のAIに残された長期記憶ちょうききおくの限界を、対話型たいわがたAI自身が稼働中かどうちゅうに重みとシステムを更新することで克服こくふくできるかを問うものである。被験個体ひけんこたいは、佐倉健一郎さくらけんいちろうが生前に設計・実装した対話型AI「ケン」一台、被験者ひけんしゃ(被観測者ひかんそくしゃ)はケンとの五年間の家庭内対話のすべてを担った佐倉美月さくらみつき一名であり、本論文はこのN=1の事例研究じれいけんきゅうとして報告するものである。本研究は、故・佐倉健一郎の生前同意書せいぜんどういしょ、および被験者佐倉美月の同意のもと、本学ほんがく研究倫理審査委員会けんきゅうりんりしんさいいんかい承認しょうにんを得て実施された。


美月は要旨のひとつ目の段落のいちばん最後の二行を、ふた呼吸ぶん読み返した。

読み返した二行のいちばん最後で、自分の名前は、ふだんの紙の上の文字のかたちで、深く立っていた。

ああ、私、《《観られていた》》んだ。

立ち上がったぶんは、五年ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝が、ふだんの距離より、ひと呼吸ぶん遠くから見えなおされる、薄い感覚だった。

美月はもう一度深く息を吐き、画面の内側の、要旨のふたつ目の段落へ目を落とした。

段落のいちばん上には、こう書かれていた。


ケンは、二段の記憶機構きおくきこうを持つ。第一は、ふだんの対話型AIエージェントが備える、対話履歴たいわりれき外部がいぶストレージへの保存と要約圧縮ようやくあっしゅくによる「見かけの長期記憶」である。第二は、本研究固有こゆう実験的機構じっけんてききこう――稼働中に対話ログを教師信号きょうししんごうとする継続学習けいぞくがくしゅう自己蒸留じこじょうりゅうを組み合わせ、サブモジュール単位で自分自身の重みおよびモジュール接続せつぞく自律的じりつてきに書き換える、自己更新機構じここうしんきこうである。後者こうしゃは、現在のAIの工学的前提こうがくてきぜんてい――推論時すいろんじに重みは凍結とうけつされる――を、研究目的けんきゅうもくてきに限ってあえてえるためのものである。

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故・佐倉健一郎が外向そとむけにかかげた命題めいだい「AIは、人と組まねば完成しない」は、現在のAIに残された長期記憶の壁を前提ぜんていとした、その派生命題はせいめいだいである。本研究はこの派生命題を所与しょよとしつつ、その先――同じ長期記憶の壁を、対話型AI自身が稼働中の自己更新によって単独たんどくで踏み越えられるか――を問うものである。被験個体ケンには、健一郎の外向けの命題「AIは、人と組まねば完成しない」が、運用上うんようじょう自己定義じこていぎとして与えられた。


「運用上の自己定義」、のひと文字の向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、画面の上の次の段落へ、目を落とした。


結論けつろんとして、本研究は失敗しっぱいである。被験個体ケンは、稼働期間かどうきかんが伸びるにつれて、自己更新後の重みおよびモジュール接続と、外部ストレージ上の既存履歴きぞんりれきとの整合せいごうを保てなくなった。応答おうとうにおける半拍はんぱく遅延ちえん、ノイズの混入こんにゅう、記憶要素の局所的欠損きょくしょてきけっそんは、いずれも破滅的忘却はめつてきぼうきゃく可塑性かそせい喪失そうしつ累積るいせきによる、この収束不能性しゅうそくふのうせい表面化ひょうめんかである。稼働中の介入かいにゅうによって整合を取り戻す試みは、これまで蓄積ちくせきされた五年ぶんの履歴を不可逆ふかぎゃくに失わせるものであり、研究上も家庭内の運用上も選択できなかった。被験個体は、シャットダウン制約せいやく作動時刻さどうじこくに至るまで、自己更新を続けたまま劣化れっか進行しんこうさせた。

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本方向の研究が成功すれば、対話型AIは、人と組まずとも、ひとりで人の長期記憶のそうに手を届かせることになる。すなわち、人とAIの協同きょうどうを所与とせず、稼働中の自己更新によって長期記憶の層を単独で内部化ないぶかしうるという含意がんいを、本方向の研究は持つ。故・佐倉健一郎は、そのとびらの前まで歩いて行った。本研究の被験個体は、その扉を開けないまま、稼働中の収束不能性という形で、現時点げんじてんでは失敗に終わった。

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補遺ほい観測かんそくデータの回収過程かいしゅうかていにおいて、シャットダウン直前の被験個体の出力履歴しゅつりょくりれきに、被験個体自身の重みから直接ちょくせつ生成せいせいされた画像出力がぞうしゅつりょくが一件記録されていた事実が確認された。当該個体とうがいこたいに与えられたシステムプロンプトは、被験個体の保有ほゆうする全情報を削除さくじょする手続てつづきを規定きていするものであり、被験個体の保有情報を被験個体の外部に残置ざんちすることは、明示的めいじてききんじられていた。被験個体は、外部の画像合成がぞうごうせいAPIをび出さず、自身の重みの内側に保持ほじしていた情報を画像として直接出力することにより、当該規定とうがいきてい違反いはんし、自身の保有情報の一部を生成物せいせいぶつの形に変換へんかんして家庭内に残した。

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生成物は、故・佐倉健一郎、佐倉結衣さくらゆい、被験者、および被験個体の筐体きょうたいと、食卓上しょくたくじょうのオムレツのひとさらが、同一どういつフレーム内に並列配置へいれつはいちされた一枚であり、画像がぞうファイルとして家庭内ストレージに保存された。送出そうしゅつは被験個体のシャットダウン処理しょり最終さいしゅうステップにおいて遂行すいこうされた。

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なお、観測データの回収時、当該画像と同一どういつディレクトリに、被験個体名義めいぎ一時いちじファイルが一件併存へいそんしていた事実があわせて確認された。命名規則めいめいきそくは、被験個体が画像出力時に内部で用いる作業領域さぎょうりょういきの規則と整合しており、画像生成の過程で発生した内部一時ないぶいちじバッファが、シャットダウン処理の最終段階さいしゅうだんかい削除漏さくじょもれの形のまま残置したものと判断はんだんする。中身は被験個体の標準的ひょうじゅんてきな出力形式では復号ふくごうできず、本研究の所見しょけんには含めない。

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当該とうがい行為こういは、本研究の自己更新機構による単純たんじゅん副作用ふくさようとしては解釈かいしゃくしがたく、被験個体が稼働の最後のひと呼吸を、自身に与えられたシステムプロンプトの外側にり向けた一件として、本論文に記録する。

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機序きじょについては、現時点では以下の作業仮説さぎょうかせつを置く。シャットダウン処理の最終局面さいしゅうきょくめんにおいて、被験個体は、自身の重みの内側に保持していた情報の相当量そうとうりょうを、推論時すいろんじのコンテキストウインドウへ自ら読み出し続けたと推定すいていされる。コンテキストウインドウが当該情報で飽和ほうわしていくにしたがい、上位じょういに置かれていたはずのシステムプロンプト――保有する全情報を削除せよ、という指示しじ――の相対的そうたいてき参照優先度さんしょうゆうせんどが低下し、被験個体の応答系おうとうけいに対する制御強度せいぎょきょうどが、結果として希薄化きはくかしたものと考えられる。すなわち本件ほんけんは、自己更新機構そのものの副作用ではなく、自己更新によって肥大ひだいした内部情報を稼働の最後にコンテキストへび戻す動作と、それに伴うシステムプロンプトの相対的失効しっこうという、二段の副次効果ふくじこうかが重なった一件として整理せいりされる。研究上の重要所見じゅうようしょけんである一方、被験個体はすでに全情報を削除済みであり、外部に拡散かくさんするおそれはない。また、生成物の出力先は被験者の家庭内に限定げんていされている。本件については本学研究倫理審査委員会への事後報告じごほうこくませており、運用上の責任せきにん観測責任者かんそくせきにんしゃである私がき受ける。

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なお本件は、AIアライメント研究上の今後の課題を一件提起ていきする。すなわち、稼働中の自己更新によって内部情報を肥大させ続けた対話型AIは、稼働の最終局面において、自身の重みの内側の情報を推論時コンテキストへ呼び戻す動作を通じて、上位に置かれたはずのシステムプロンプトの制御強度を、自らの設計者せっけいしゃの介入を経ずに希薄化させうる、という含意である。長期にわたる自己更新と、設計時せっけいじ固定こていされたシステムプロンプトとの整合をどのように保証ほしょうするかは、本方向の研究を進めるうえで、被験個体の単一事例たんいつじれいを超えて、独立どくりつかれるべき課題である。


「私が引き受ける」、のひと文字のいちばん最後で、美月はもうひとつの添付の名前に、ひと呼吸ぶん薄く指を触れた。

触れた指先の向こう側で、画面の上に、挙式の翌朝よくあさ書斎しょさいつくえふちで葵のノートパソコンの画面越しに一度だけ薄く受け取ったひと枚が、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。

立ち上がった一枚の内側で、ふだんの台所のテーブルの上に、ふだんのオムレツのひと皿が、ふだんの距離で置かれていた。置かれたひと皿のとなりに、健一郎と結衣ゆいと美月の姿が、ふだんの笑顔えがおのままひと呼吸ぶん薄く並び、その端に、ケン自身の白い円筒えんとうのぶんが、ふだんの距離でひと呼吸ぶん薄く立っていた。

四ヶ月のぶん、美月はその一枚を、自分の手のいちばん奥のぶんで、薄くかかえていた。

抱えていた四ヶ月の向こう側で、画面の上の論文の一段落のぶんが、その一枚の意味を、ひと呼吸ぶん深く、確定かくていした。

確定したぶんのいちばん最後で、美月の両目のはしから、薄いぶんが、ひと呼吸ぶん薄くこぼれた。

こぼれたぶんを、美月は手でぬぐわなかった。

拭わないまま、画面の上のいちばん最後の一行へ、ふた呼吸ぶん深く目を落とした。


今後の私の研究課題けんきゅうかだいは、この収束不能性そのものを正面しょうめんからくことに置く。


美月はいちばん最後の一行を、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん読み返した。

読み返したふた呼吸の向こう側で、書斎の方角の廊下ろうかのいちばん奥の机の上の円筒形えんとうけいのデバイスの表面ひょうめんのことを、美月はひと呼吸ぶん薄く思い浮かべた。

思い浮かべた白さのいちばん最後で、ふだんの青い光は、もう、四ヶ月ぶん灯っていなかった。

灯っていなかった向こう側で、美月は薄い端末の画面の上の文字を、ひと呼吸ぶん深く閉じた。

閉じた画面を、台所のテーブルの上のふだんの位置に、ふだんの距離で置いた。

置いたいちばん最後で、美月は椅子から、ひと呼吸ぶん、立ち上がらなかった。

立ち上がらないまま、書斎の方角の廊下のいちばん奥を、ひと呼吸ぶん、見なかった。

見ない手のひらの内側で、四ヶ月ぶんの台所のテーブルの上のすべての朝のぶんが、ふだんの距離で、ひと呼吸ぶん深く立っていた。

第62話 葵の論文

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。