第57話

四個の卵

書斎(しょさい)の机(つくえ)の縁(ふち)の薄い樹脂(じゅし)のケースを、美月(みつき)は開けた。

五年(ごねん)前のあの夕方(ゆうがた)からずっと使ってきた細い耳飾(みみかざ)りが、ふだんの位置に収(おさ)まっていた。

耳に掛けた。

右の耳の奥で、骨を通る振動(しんどう)の気配が、ふだんよりひと呼吸ぶん薄く灯った。

美月は台所(だいどころ)に立ち、流(なが)しの横のボウルを出した。ゆうべ洗って伏(ふ)せて置いたぶんのボウルの内側は、乾(かわ)いて朝の薄明かりを入れていた。

冷蔵庫(れいぞうこ)から卵のパックを取り出し、いちばん左のひとつを指で押(お)さえた。指先(ゆびさき)のざらつきは、ふだんと同じだった。確(たし)かめてから、美月はその卵をボウルのふちに軽く当てた。

殻(から)の亀裂(きれつ)が、ボウルの内側に走った。白身(しろみ)と黄身(きみ)が、最後のひと滴(しずく)まで落ちた。殻はシンク横の空(あ)き缶(かん)に置いた。

ボウルの内側の卵の黄身は、朝の薄明かりに薄く照らされていた。

「父さん。ひとつ目、迷(まよ)わなかった」

『ああ、迷わなかった』

二個目(にこめ)、三個目(さんこめ)、四個目(よんこめ)を、続けて取った。

ボウルのふちに、ひと呼吸ぶんずつ軽く当てていった。

当てたふちの向こう側で、三つの卵が、迷わずに落ちた。

「父さん。四個、割った。迷わなかった」

『迷わなかった』

「殻、ひとつも混(ま)ざらなかった」

『混ざらなかった』

「うん」

四個の卵を菜箸(さいばし)でほぐし、ふだんよりひと粒(つぶ)多い塩、生(なま)クリーム大さじ一、シュレッドチーズをふだんよりふた呼吸ぶん多く加(くわ)えた。

『美月。最後の一皿(ひとさら)の評価関数(ひょうかかんすう)を、ひとつだけ確(たし)かめさせてくれ』

「うん」

『五年前から、耳飾りのカメラと君の口頭(こうとう)の感想(かんそう)を、私は積(つ)んできた。今朝(けさ)はそれを使う。──君ひとりの谷(たに)だ』

「うん」

『初期点(しょきてん)は、私から提案(ていあん)させてくれ。──君が、五歳(ごさい)の朝に「世界一(せかいいち)」と言った、あの一皿だ』

「──あの日の」

『あの日の。父さんが、焦(こ)げを隠(かく)すためにチーズを入れすぎた、失敗作(しっぱいさく)の方だ』

「うん」

「父さん。あの皿から、ほんの半歩(はんぽ)ぶん、ずらしていい」

『どこへ』

「銀杏亭(ぎんなんてい)の半年の手のぶん。私が、あの五歳の舌(した)の上に、五年かけて重(かさ)ねたぶん」

『──分かった。半歩ぶん、ずらす』

『ずらした初期点から、君ひとりの谷に降(お)りた底(そこ)を、ひと組だけ言う。摂氏(せっし)百八十五度(ひゃくはちじゅうごど)、バター十グラム、塩一・〇グラム、生クリーム大さじ一、チーズ二十グラム、撹拌(かくはん)一秒に四回』

「──対決(たいけつ)の夜と、ほとんど同じだ」

『ほとんど同じだ。五年経(た)って、君の谷は、あの夜の二人ぶんの合成(ごうせい)の谷の、すぐ近くに立っている』

「うん」

塩は、もう先に、ボウルの中に落(お)ちていた。ケンが言った一・〇グラムより、ひと粒、多かった。それは、私が決めた。

『ただ、チーズだけは、君ひとりの谷では、ふだんよりふた呼吸ぶん多い方が、底が深い。十グラム足(た)して、三十グラムだ』

「ふた呼吸」

『私の推奨(すいしょう)関数だ。君の判定(はんてい)を優先(ゆうせん)する設計(せっけい)は、変えていない』

「父さん。チーズ、ふた呼吸ぶん多くした。父さんの推奨どおり」

『ふた呼吸』

「父さん。最後の朝まで、私の判定を優先させる設計、残してた」

『残していた』

フライパンをコンロの上に置いた。耳飾りのカメラ越(ご)しに、ケンが底の温度(おんど)を読む。

『いま、二十二度の見当(けんとう)だ。百二十度まで待つ』

「待つ」

やがてフライパンの底に、空気の薄い揺(ゆ)らぎが立った。

『百二十度。バターを置く。十グラム』

「十」

十グラムのバターを、底のいちばん真ん中に置いた。バターはすぐに弾(はじ)け、薄く泡立(あわだ)ちはじめる。

『泡(あわ)が細かいぶんに切(き)り替(か)わった。百八十五度。卵液(らんえき)を入れる』

「うん」

美月はボウルの卵液を、フライパンの上に流し込んだ。底の上で薄く広(ひろ)がり、薄い白い膜(まく)が立ち上がる。膜の外側を菜箸で内側に押(お)し込むと、半熟(はんじゅく)の層(そう)が薄く揺れた。

「父さん。いま、端(はし)、焦がす」

『私の判定では、焦がさない』

「焦がす。私が決める。これが、最後の一手(いって)」

『──最後の一手だ』

「うん」

美月はフライパンの外側のふちを、コンロの火の上でひと呼吸ぶん留(と)めた。ふちは二度、薄く焦げた色に変わる。あの対決の皿のふちと同じ色だった。

火から外し、フライパンを皿の上に傾(かたむ)ける。卵は皿の内側に滑(すべ)り落ち、ふだんの形に収まった。外側のふちには、薄い焦げの色がはっきりと立っている。その内側から、チーズが薄く滲(にじ)んでいた。

「父さん。焼(や)けた。四個ぶん、ひと皿になった」

『ひと皿になった』

「ふた呼吸ぶん迷わなかった」

『ああ。迷わなかった』

第57話 四個の卵

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。