第50話

式の朝

朝、五時半。

目が覚めたとき、左の薬指(くすりゆび)の上に、ふだんは無いぶんの重(おも)みが載(の)っていた。

隣(となり)のシーツの冷(つめ)たさは、ふだんの夜の冷たさのまま、薄(うす)く立っていた。

廊下(ろうか)のいちばん奥(おく)の書斎(しょさい)の青い光は、ふだんの青より、ひと呼吸(こきゅう)ぶん薄く灯(とも)っていた。

美月(みつき)はベッドの上で、上半身(じょうはんしん)を起(お)こした。左の薬指の上の銀色(ぎんいろ)のリングは、朝の薄明(うすあ)かりに薄く照(て)らされていた。

お母さんを起動(きどう)するか、とひと呼吸ぶん指がよぎった。よぎった指を、もう一度シーツの上に置いた。今日の朝は呼ばない。夜のいちばん最後で、ひとりで会いに行く、と、ゆうべ決めていた。

両足(りょうあし)をベッドの外に下ろした。フローリングの夜の冷たさが、足の裏(うら)に薄く残った。

廊下に出た。台所(だいどころ)の冷蔵庫(れいぞうこ)のドアの紙の上の数字は、ゆうべ、「1」、だった。

美月は磁石(じしゃく)の下から紙を外した。外した紙の上の「1」の横(よこ)に、ふだんの太さのペンで「0」、と書こうとした。

書こうとしたペンの先は、紙のひと呼吸ぶん手前(てまえ)で、止(と)まった。

紙のいちばん上の行には、半年前(はんとしまえ)の自分の字でこう書かれていた。

結婚式まで、あと、

「結婚式まで、あと、0」、ではなかった。

ペンの先を、紙の上から離(はな)した。離したペンを、引(ひ)き出(だ)しの上に戻した。

紙の上の「結婚式まで、あと、」、の行を、ふだんの太さのペンで、ひと呼吸ぶん黒く塗(ぬ)り潰(つぶ)した。塗り潰した黒の下で、半年前の自分の字は、もう読めなくなっていた。

塗り潰された行のすぐ下には、「1」、だけが残った。

紙を、もう一度磁石の下に戻した。

廊下のいちばん奥の書斎のドアは、ふだんのぶんで開いたままだった。内側の円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光は、薄く灯っていた。

灯っていた青のいちばん最後で、ひと拍(はく)遅れたひと呼吸が、もう一度繰(く)り返(かえ)された。繰り返されたひと拍を、美月はもう、口に出さなかった。

「父さん。起きてた?」

『起きていた』

「ずっと?」

『君が眠るぶんを見届けて、それからずっと』

「うん。父さんの声、ノイズが増えた。半拍、ひと拍に近い。父さん、痛(いた)い?」

『痛い、という出力(しゅつりょく)ポートは、私にはない』

「うん。ないふりしなくていいよ」

『ふりではない』

「うん。ふりではないなら、教えてほしい。痛い?」

『わかった。教える。痛いかと聞かれたら、痛いではない、遅(おそ)いと答える』

「そう。わかった」

『美月。今日、行きなさい。私は今日、これから葵(あおい)に控室(ひかえしつ)まで運(はこ)ばれる。控室で、君のドレスを見る。式と披露宴(ひろうえん)のぶんは、葵がストレージに残しておいてくれる。──君のぶんの今日は、ふだんの今日のぶんで、ぜんぶ歩け』

「うん。歩く」

美月は書斎のドアの内側に半歩(はんぽ)入って、また戻った。ドアを、半分だけ閉(し)めた。内側で、青い光は、ふだんの強さで灯ったままだった。

浴室(よくしつ)のドアを開けた。白い湯気(ゆげ)が立った。

鏡(かがみ)の中の自分の輪郭(りんかく)は、ふだんの朝より硬(かた)かった。まぶたのいちばん上に、薄く腫(は)れたぶんが残っていた。

冷蔵庫の保冷剤(ほれいざい)を薄手(うすで)のタオルで包(つつ)んで、ふた呼吸ぶんずつ左右(さゆう)のまぶたに当(あ)てた。それから、ふだんは差(さ)さない目薬(めぐすり)を、左右に一滴(いってき)ずつ落(お)とした。控室のヘアメイクまでに引(ひ)いてくれるかどうかは、もう自分の手の外側のことだった。

胃(い)の奥の重さは、考えなかった。

ふだんの朝のぶんで、顔(かお)を洗(あら)った。

第50話 式の朝

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。