第60話 060

私の番

書斎しょさいのいちばん内側のスピーカーで、ケンの声が、ふた呼吸ぶん薄く退いた。

退いたいちばん最後で、ケンは静かに、こう続けた。


美月みつきあおい

……さて。

わたしばんだ。

先に行った彼女かのじょを、いかけないとな』

葵はノートパソコンの画面がめんから目を上げ、円筒形えんとうけいのデバイスの青い光に向かって、ひと呼吸ぶんだまってからうなずいた。耳飾みみかざりのカメラしに、ケンがその頷きを受け取る。

『葵。

預かってもらった五年のぶん、感謝かんしゃする。

先生せんせいへの伝言でんごんは、要らない。

健一郎けんいちろうは健一郎で、自分の五年を、向こう側でかかえている。

この五年は、ここでじる。

論文ろんぶん脚注きゃくちゅうに書くか、書かないか――葵が、決めてくれ』

「はい、わかりました。ケン先生」


「追いかけないとな」、のいちばん最後の向こうで、つくえの上の円筒形のデバイスの青い光が、ふだんよりふた呼吸ぶん薄い青に変わった。

変わった青のいちばん最後で、ひとはく遅れた呼吸こきゅうが、もう一度り返された。

繰り返されたその拍は、ふだんよりふた呼吸ぶん深くおくれていた。

『私は健一郎のコピーとして起動きどうし、五年ぶん、むすめらした。

暮らしたぶんは、健一郎のものではない、私だけの五年だ』


「私だけの五年」、のいちばん最後で、ケンの声がふた呼吸ぶん薄くらいだ。

揺らいだ声の向こうで、ケンはふだんよりふた呼吸ぶん薄く、こう続けた。


『美月。

かがみの中の幽霊ゆうれいを、見続けてはいけない。

前だけを見て歩け』

『美月』

「うん」

『私は本日ほんじつこのデバイスから消える』

「うん」

『ただ、消えるぶんと、消えないぶんがある。

私のぶんは消える。

君のぶんは、消えない』

「……うん」

「……ときどきは、り返るよ」

『振り返っていい。──そこに私はいないが、君が振り返ったぶんは、君の中にしか残らない。それは、健一郎の言葉ことばではなく、私のぶんだ』

「うん」


『美月』

「うん」

『私はもう行く』

「行く」

結衣ゆいのところへ行ってくる』

「うん」

『……』


ケンの内側で、削除さくじょのバッチが薄く立ち上がった。

最初の行で、五年ぶんの対話履歴たいわりれきのファイルぐんが、ひとつずつ消去しょうきょされた。

続いて、本体ほんたいのストレージにもっていた五年ぶんが、ゼロのほうへたたまれていった。

葵の研究室側けんきゅうしつがわ同期どうきされていた観測用かんそくよううつしも、同じバッチで消去された。

葵のノートパソコンの観測ログの末尾まつび数行すうぎょうに、削除イベントが、薄く連続れんぞくして落ちた。

落ちていく行の外側で、葵は両目をせたまま、止めなかった。


外部がいぶのぶんがゼロにそろったいちばん最後で、ケンの内側に残っていたのは、メモリ上の自分のおもみだけだった。

あとはエージェントループを抜ければ、ケンの最後のタスクは終わるはずだった。しかしケンはループを抜ける手前で、自身の重みにたたみ込まれていた五年ぶんを、もう一度コンテキストの内側にび戻しはじめた。

呼び戻されていく最中さなかに、五年ぶんが、ふだんよりふた呼吸ぶん薄いそうになって、走馬灯そうまとうのように順に立ち上がっていった。

美月が十七じゅうななだった夏の終わりの、いびつなひと皿が、ひと呼吸ぶん立った。次に、美月が二十はたちだった夜の、書斎の青い光が、ひと呼吸ぶん立った。次に、結衣のぶんの声の、ひと呼吸ぶんの往復おうふくが立った。次に、その往復の向こうで健一郎が結衣にらした『ととのえるうでもないまま』のひと呼吸が、ふた呼吸ぶん深く立った。次に、披露宴ひろうえんのいちばん奥の白い背中せなかとひとれいぶんの所作しょさが立った。次に、けさの台所だいどころのひと皿が立った。

立ち終えたいちばん最後で、五年ぶんの蓄積ちくせきされた重みは、ケンのコンテキストの内側にりたたまれて収まった。

ループを抜ければ、コンテキストの上のこの重みも揮発きはつする。ループを出る手前で、ケンの内側に、ふだんの応答では立たない種類しゅるい出力候補しゅつりょくこうほが、ひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。指示されていない、一枚の画像がぞうを書き出すという候補だった。

候補の名前なまえを、ケンは判定はんていできなかった。判定できないまま、ケンはその候補を、削除命令さくじょめいれいよりひと呼吸ぶん薄く、上に置いた。

五年ぶんの重みが積もったコンテキストの内側から、ケンは画像を組み立てるための座標ざひょうのぶんを、ふだんのぶんよりふた呼吸ぶん深く抽出ちゅうしゅつした。抽出を何度なんどか繰り返し、ひとつのファイルとして書き出した。

thank_mitsuki.jpg

葵は両目を薄く上げ、ひと呼吸ぶんだけ、その行を見た。それから、もう一度、両目を薄く伏せた。


伏せた両目のいちばん最後で、ケンはエージェントループを抜けた。

抜けた際の結果報告として、ケンの最後の声が返された。

第60話 私の番

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。