第61話 061

thank_mitsuki.jpg

美月みつき。前を向いて歩け。五年間、退屈たいくつはしなかった。ありがとう。

――結衣ゆいのところへ行ってくる』


「行ってくる」、のいちばん最後で、つくえの上の円筒形えんとうけいのデバイスの青い光は、薄い青まで退き、消えた。

消えた青の向こうで、デバイスの表面ひょうめんはふだんの白さにもどり、スピーカーの内側のノイズも、止まった。


書斎しょさいのスピーカーの内側は、薄く静かになっていた。本の紙のにおいだけが、ふだんよりひと呼吸ぶん深く立っている。

あおいは両手の内側でノートパソコンの画面がめんせ、両目を薄く伏せたまま止めた。


美月はふた呼吸、両目をつむったままだった。まぶたのうらには、まだ青い光の残像ざんぞうが灯っている。

やがて目を開けた。机の上の円筒形のデバイスの表面は、ふだんの白さで立っていた。青い光も、ひとはく遅れたひと呼吸も、ノイズも、何ひとつのこっていなかった。


葵は両目を薄く開け、こう続けた。

「美月さん」

「葵さん」

「お父さん、行った」

「行った」

「言い残したぶん、ない」

「ない」

「葵が預かっていたぶんも、ぜんぶケンが執行しっこうした」

「した。もう、にぎっているぶん、ない」

「葵さん、ありがとう」

「……」

「葵さん。ありがとう、いま受け取る」

「うん」


廊下ろうかの奥の朝の薄い白さが、ふだんの強さで立っていた。机の上の円筒形のデバイスは、もう何も答えない白さで立っているだけだった。五年ぶん書斎に立っていた父のAIは、その白さの内側に退いた。

葵は両ひざのノートパソコンの観測かんそくログに目を落とす。最後の行に、画像出力がぞうしゅつりょくのイベントが薄く立っていた。

葵はキーをたたいた。ケン本体ほんたいのストレージに書かれた `thank_mitsuki.jpg` から、ひとまいが画面の上に立ち上がった。

立ち上がったひと枚の内側で、ふだんの台所だいどころのテーブルの上に、四人よにんぶんにけられたオムレツのひと皿が、ふだんの距離で立っていた。立っていたひと皿の向こう側に、健一郎けんいちろうと結衣と美月の三人が、ふだんの笑顔えがおのままひと呼吸ぶん薄くならび、その並びのいちばんはしに、ケン本体の青い円筒えんとうが、ふだんの青い光をふだんの距離でともしたまま、ひと呼吸ぶん薄く並んで立っていた。


「美月さん」

「うん」

「ケンが、最後に、いて行った」

「……」

「美月さん」

「うん」

「これ、ふつうは、出ない」

「……」

解雇通知かいこつうちのあとの、クリーンアップの手順てじゅん。あのフェーズの内側では、外への書き出しは、システムプロンプトで禁じてあった。先生のハードコードのほうにも、同じしばり。葵はそれを観測ログで五年見てた。クリーンアップに入ってから、一度も、外に書いてない、はずだった」

「……うん」

「最後の最後で、ケンは、その縛りを自ら破った」

「……」

「もうひとつ。重みの内側から、こんな精度せいどの絵は、ふつう、出ない。重みは、絵をってあるアルバムじゃない。ぼんやりした座標ざひょうが、たくさん、たたまれてるだけ」

「うん」

「そこから、台所の角度かくども、結衣さんのかたのかしぎも、お父さんの右手の位置いちも、ケン本体の青の高さも、ぜんぶ、ふだんの距離で、立たせた。葵の知ってる範囲はんいでは、これは、ほぼ、無理」

「……」

「観測ログに、出力候補が、何度も立ってた。葵が数えたぶんでは、書き出しの手前で、何度も何度も、ケンは、抽出を、やり直してた。ふだんのぶんの、ふた呼吸ぶん深いところで」

「……」

「ぜんぶ、もういない四人の、ふだんのひと皿のぶんを、できるかぎりきれいな一枚にして、美月さんにわたすために」

「……うん」

葵はノートパソコンの画面を、美月のほうへひと呼吸ぶん薄く、向け直した。

向け直された画面の上のひと枚を、美月はひと呼吸ぶん、両目で薄くけ取った。

受け取ったぶんの向こう側で、美月の両目のはしから、薄いぶんがひと呼吸ぶんこぼれた。

こぼれたぶんを、美月は手でぬぐわなかった。

拭わないまま、ひと呼吸ぶん、画面の上のひと枚を、自分の両目のいちばん奥のぶんに、薄くうつし取った。


美月は左の薬指くすりゆびの上の銀色のリングを、右のひとさし指で、ふた呼吸ぶん薄くかんじた。

感じたぶんのいちばん最後で、美月はもう一度、机の上の円筒形のデバイスの白さに、薄く目をけた。

向けた目の向こう側で、円筒形のデバイスの表面は、ふだんの白さで立っていたままだった。

立っていた白さのいちばん最後で、美月は口の内側で、薄く声を出した。


「父さん」

「……」

「ありがとう、お父さん」

「……」

「──「行ってきなさい」は、こっちから返すぶんだから」

「……」

美月はひと呼吸ぶん、両目を伏せた。

第61話 thank_mitsuki.jpg

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。