第16話

夜の声

再生(さいせい)ボタンを押した。

最初、二秒ほどの無音(むおん)だった。

それから、父の声。生前(せいぜん)のまだ若い、ノイズの混(ま)じっていない父の声。

「……結衣(ゆい)。聞こえるか」

美月(みつき)は椅子(いす)の背を、もう一度深く押した。押したけれど、背中の力はほとんど入らなかった。

父の声のあとに、妙(みょう)に長い無音が挟(はさ)まった。

その無音のあとに、応答(おうとう)があった。

別の声。

女性の声。

ただ、その声はどこか硬(かた)かった。語尾(ごび)が紙のように平らで、息継(いきつ)ぎの音がなかった。機械が、誰かの話し方を写(うつ)し取ろうとして、まだ写しきれていない、そういう硬さだった。

『……はい』

最初、美月には誰の声か分からなかった。

父の声が、ふっと笑った。

「結衣。すまない。私の腕(うで)では、まだ、君をここまでしか連れてこられない」

『……』

「それでもいい。聞いていてくれ」

『はい』

それでも、輪郭(りんかく)の芯(しん)のところだけが、写真でしか知らないはずの誰かに似ていた。誰かの口調(くちょう)を、まだ上手(うま)くなぞりきれていない似方だった。

それでも美月は知っていた。後ろ髪(がみ)の付(つ)け根のあたりが、ひんやりした。

父の声が続いた。

「美月に、嫌いと言われた」

『……』

「七歳だ。七歳の女の子に、嫌いと言われた」

『そう』

「『パパは私の話を聞かない』と言われた。論理的(ろんりてき)な順序(じゅんじょ)が崩れていたから、整理(せいり)してから話すように言ったんだ」

『……』

長い無音のあとに、

『それは、よくないと思います』

と、教科書(きょうかしょ)のような平板(へいばん)な返事が返ってきた。

父はしばらく黙(だま)っていた。

「結衣」

『はい』

「私は、父親(ちちおや)には向いていないのだろうか」

返事は、返ってこなかった。無音は、長く続いた。

母の声は、答えなかった。父も黙っていた。

──七歳。

美月は覚えていた。

朝食(ちょうしょく)の食卓(しょくたく)だった。途中でフォークを置いて、「パパは、私の話を聞かない」と言った。それから「嫌い」とも言った。父は黙って自分の朝食を食べていた。

その夜、父が誰に向かってその話をしていたのか。美月は十数年経(た)って、初めて知った。

別のファイルを開いた。

日付はもっと新しい。美月が十六のときの、夏の終わりの日付だった。

「結衣」

『うん』

「……だいぶ、話せるようになったな」

『そうかしら』

最初の一言の語尾が、さっきとは違っていた。ほんの少しだけ上がっていた。息継ぎの音がしていた。同じ女性の声のはずなのに、さっきの紙のような硬さは、どこかへ消えていた。

「病気(びょうき)が見つかった」

『……』

「珍(めずら)しいやつだ。一年半か、長くて二年と言われた」

『そう』

「美月には、どう言えばいい」

『言わなくていいわよ。ぎりぎりまで』

「……ずるいな、それは」

『ずるくていいの』

「ずるくていい?」

『あの子、強そうに見えて、芯のところはまだ五歳のままだから』

──芯のところ、と美月は喉(のど)の奥で繰(く)り返した。母はそれを、知っているはずがなかった。

父の、息を吸(す)う音。

「結衣。私はあの子を、ひとりにする」

『うん』

「ひとりにしないために、何かを遺(のこ)さなければいけない」

『何を?』

「分からない。家。お金。──それだけでは、たぶん足りない」

『あなたを遺せばいいのよ。残せる範囲(はんい)で』

父は長く黙った。

それから何かを呟(つぶや)いた。聞き取れない。聞き取れないが、その後に続いた言葉だけがはっきりしていた。

「──私は、研究者(けんきゅうしゃ)だ」

美月は再生を止めた。

止めて、しばらく、ノートPCの画面の隅(すみ)の再生時間の表示を見ていた。

別のファイル。日付はまた別の年。

「結衣」

『うん』

「教(お)え子に、論文(ろんぶん)で論破(ろんぱ)された」

『あら』

「天才(てんさい)と呼ばれていた子だ。私の研究の核(かく)を、名指(なざ)しで否定(ひてい)する論文を出した」

『読んだの?』

「読んだ」

『で?』

「……一理(いちり)ある」

『あなた、それ、認(みと)めるの嫌いでしょ』

「……認めるしかない」

母の声が、また笑った。

『あなた、研究のことになると、本当に不器用(ぶきよう)ね』

『彼は、何を言っているの?』

「私のAIは中途半端(ちゅうとはんぱ)だ、と」

『中途半端』

「人と組まなければ完成(かんせい)しない、というのは、要(よう)するに、AI単独(たんどく)では未完成(みかんせい)です、と認めているのと同じだ。彼はそう書いている」

『あなたは、認めてないの』

「認めている」

『じゃあ、いいじゃない』

「彼は認めずに、AI単独で完成形(かんせいけい)を作ろうとしている。サンプル数十万(すうじゅうまん)の客観(きゃっかん)データと巨大(きょだい)なAIモデルだけで、人間ひとりの主観(しゅかん)記憶(きおく)を超えると書いている」

『あら』

「彼は、私を置いていく」

『……』

「私は、彼を止(と)められなかった」

母の声が、しばらく何も言わなかった。

『あなた、あの子のこと、好きだったでしょ』

「……」

『あの天才の子。研究室(けんきゅうしつ)で目をかけていたでしょ』

「……認める」

『論文で批判(ひはん)されたのが辛(つら)いんじゃなくて、あの子に置いていかれたのが、辛いのね』

父はしばらく何も言わなかった。

「──そうだ」

『……』

「分かっている」

美月はその教え子の名前を知らなかった。

知らなかったが、たぶんあの男のことだった。莉子(りこ)が朝、名前だけ吐(は)き捨てた、あの男。

美月はファイルを止めた。まだ、別に聞かなければいけないものがあった。

ファイル一覧(いちらん)を、もう一度見た。

ひとつだけ、再生時間の極端(きょくたん)に長いファイルがあった。

ほかのファイルは十分から、長くて二十分のところ、それは二十五分あった。

美月はその上にカーソルを合わせた。

「父さん」

机の上の、暗くなったデバイスの星のような光が、こちらを見ていた。

ケンの耳には届いていない、はずだった。それでも美月は、その光に向かって、もう一度だけ、頭を軽(かる)く下げた。

「もうひとつだけ、開けるね」

クリックした。

第16話 夜の声

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。