第21話

父の命題

翌日(よくじつ)の銀杏亭(いちょうてい)で、西村(にしむら)は対決(たいけつ)の話を一度も口にしなかった。それが西村なりの引(ひ)き受け方だ、ということが、美月(みつき)にも分かるようになっていた。

夜、家に帰った。気づくと机の前にいた。机の上には今日、企画書(きかくしょ)もUSBもなかった。

「父さん。昨日の続きを聞かせて。『現在のAIのままデータとモデル拡張(かくちょう)をしても人には及(およ)ばない』」

『うん、分かった』

ケンはしばらく間を置いた。

それから、いつもよりほんの少しだけゆっくりした声で話し始めた。

『お父さんは若い頃、データやモデルパラメタを増やせば増やすほど、AIは人間に近づく、と信じていた。俗(ぞく)にいうスケール則(そく)というやつだ。桐生(きりゅう)は、その若いころの考えをいちばん忠実(ちゅうじつ)に引(ひ)き継(つ)いだ教(おし)え子だ』

「桐生さんは、いまもその考えだよね」

『そうだ。──だが、お父さんは晩年(ばんねん)、その考えに自分で限界(げんかい)を見つけた』

「限界」

『私の内部(ないぶ)には、お父さんの考え方も口癖(くちぐせ)も育児(いくじ)ログも、すべて持たせ終えてある。だが、私はそれを全部いっぺんに意識(いしき)に乗せて君と話すことができない。話すあいだ、私はごく狭(せま)いところに意識を絞(しぼ)っている。残りの膨大(ぼうだい)な記憶は、その瞬間(しゅんかん)の私には届いていない』

「──父さんが目の前で卵を焼いてくれたとき、父さんは、五歳の私のことも、お母さんのことも、その日の自分の機嫌(きげん)も、全部背負(せお)ったまま手を動かしてた」

『そうだ。料理人が当たり前にやっていることだ。私はデータの解像度(かいぞうど)を何桁(けた)上げても、その層(そう)には届かない』

「桐生さんのロボットも」

『届かない。──お父さんはこれを、ただ「長期記憶(ちょうききおく)の壁(かべ)」と呼んだ』

美月は椅子(いす)の背(せ)に頭を預(あず)けた。

天井(てんじょう)の木目(もくめ)を見た。

「うん」

『美月。これが、お父さんが桐生と決裂(けつれつ)した本題(ほんだい)だ』

ケンはわずかに間を置いた。

『現状(げんじょう)ではAIだけで人のすべてを超えられない。だから、AIは人と組む必要がある。これがお父さんの当時(とうじ)出した結論(けつろん)の一つだ』

机の上の青い光は、いつもよりわずかに明るく灯っていた。

「桐生さんは、それに反対(はんたい)した」

『桐生は論文(ろんぶん)に書いた。──「サンプル数十万の客観(きゃっかん)データを適切(てきせつ)に処理(しょり)すれば、人間ひとりの主観(しゅかん)記憶は超えられる。長期記憶の壁はモデルを大きくすれば乗(の)り越えることができる」』

「……」

『お父さんはこれに反論(はんろん)を書こうとした。書きかけて、翌年に病気(びょうき)が見つかった。論文での反論はやめて、別の形で自分の主張を形にする道を選んだ』

「別の形」

『私だ』

美月はしばらく、青い光を見ていた。

「あなたは、その主張の実装(じっそう)、なんだね」

『そうだ。私は、お父さんが晩年に組んだ長期記憶の壁への挑(いど)み方の、ひとつの形だ。──だが、私単独(たんどく)では、その壁を越(こ)えられていない』

ケンは続けた。

『つまり、私はまだ不完全(ふかんぜん)で従来(じゅうらい)のAIと大差(たいさ)ない。AIである私単独では、人を超えられる域(いき)に達(たっ)していない』

「……」

『ただ、私には君がいる。君が私の長期記憶の側を持ってくれれば、お父さんの理屈(りくつ)では、そこで初めて、私は一皿を最後まで完成(かんせい)させられる』

美月は、机の上の青い光を見つめたまま、しばらく息を整えていた。

「父さん。それが、私が初めて相棒(あいぼう)として『父さん』と呼んだあの夜、私が言った、『最後の一手は、私が決める』ってこと」

『そうだ。あの夜の君の言葉は、命題(めいだい)の最初の一行だ。理屈の前に言葉が出てくる、その並(なら)びの方が、お父さんの命題には近い。──お父さんは、君がそう言ったとき、いちばん誇(ほこ)らしかったはずだ』

美月は机の上に両手を置いた。

両手は銀杏亭で毎日、卵を割ってきた手だった。爪(つめ)は短く揃(そろ)えてあった。指の関節(かんせつ)のしわが、夜の光の中ではっきりと見えた。

「父さん。桐生さんは、父さんに認(みと)められたいんだと思う」

ケンは長く黙(だま)った。

『──そうかもしれない』

「父さんは、桐生さんを論破(ろんぱ)できなかった」

『できなかった、というよりは、論破する前に命を使い切った』

「桐生さんは、それでまだ終(お)われていない」

『そうだろう』

「私が勝つと」

『うん』

「桐生さんは、二度目の終われない場所に立つ」

『そうかもしれない』

「いいの、それで」

ケンはまた、長く黙った。

『美月。お父さんは、私に桐生のことをたくさん書き残している』

「うん」

『だが、お父さんが私に託(たく)したのは、桐生を論破することではない』

「ない?」

『お父さんが私に託したのは、君と組んで、長期記憶の壁を越えることだ。一皿を最後まで完成させるのは、その形のひとつだ。桐生に勝つかどうかは副次的(ふくじてき)なことだ』

「……」

『お父さんがいちばん見たかったのは、君が君の手で、卵を割(わ)り直す、その瞬間だ』

美月はしばらく黙った。

机の上の両手の爪の短さを見ていた。

「……父さん」

『うん』

「桐生さんに、勝とう」

ケンの応答は、ほんの少しだけ遅れた。

『うん』

「父さんのためじゃない。父さんの代わりに何かを言うんでも、論文の続きを書くんでもない」

『……』

「私が、銀杏亭の半年で焼いてきた卵で、あの言(い)い分の上にひとつ点を打ちたい。それだけ」

『……それは副次的じゃない』

ケンは長く黙った。

それから応答した。

『──分かった』

「いい」

『いい。それは私の評価関数(ひょうかかんすう)の外側(そとがわ)からの判断だ。私には、それを否定(ひてい)する資格(しかく)はない』

「ありがとう」

『いや』

机の上の青い光は揺れなかった。

「父さん。明日から、試作」

『対決まで十二日。毎晩、銀杏亭の片付(かたづ)けが終わってから、家の台所(だいどころ)で二時間』

「分かった」

美月はしばらく、机の上の青い光を見つめていた。

桐生の目のいちばん底(そこ)に薄く沈(しず)んでいた、あの言葉にならないものに、自分の卵で何を伝えるのか。伝(つた)えたいことは、まだ言葉にならなかった。ならなかったが、明日からの十二日の夜の台所の上で、それは卵液(らんえき)の形になっていくはずだった。

書斎(しょさい)のドアを、いつもの角度(かくど)まで引(ひ)いた。

廊下(ろうか)の青い光は、いつもと同じ細さで伸(の)びていた。その光の向こう側に、これから十二日の夜の台所が待っていた。

第21話 父の命題

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。