第59話

先に、彼女を送る

最後のひと口をフォークで口に運び、皿が空(から)になったその向こう側で、玄関(げんかん)のチャイムが鳴った。

美月(みつき)は椅子(いす)から立ち上がり、廊下(ろうか)を玄関まで歩いた。

ドアを開けたいちばん最後で、葵(あおい)がふだんの距離で立っていた。ゆうべとはちがう朝のぶんの薄手(うすで)のジャケットを羽織(はお)り、両手には薄い鞄(かばん)を提(さ)げていた。

「おはよう、葵さん」

「おはよう、美月さん。──時間どおりに来た」

「うん。──ありがとう、来てくれて」

葵を連れて廊下を戻った。書斎(しょさい)のドアの縁(ふち)の手前で、葵はひと呼吸ぶん止まり、内側に半歩(はんぽ)入った。机(つくえ)の手前の椅子の横にもうひとつ椅子を引き、腰(こし)を下ろして、両膝(ひざ)の上にノートパソコンを薄く開いた。

美月はもう一度、皿の横の木の椅子に腰を下ろした。

机の上の円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光が、ふだんの強さで灯った。ひと拍(はく)遅れたひと呼吸が、もう一度繰(く)り返される。

『美月。葵。

私のシャットダウンのシーケンスが、すぐ立ち上がる。

立ち上がるふた呼吸ぶん手前で、もうひとつだけ、私には最後の仕事(しごと)が残(のこ)っている』

「最後の仕事」、のひと呼吸の向こう側で、葵はノートパソコンの画面(がめん)から、薄く目を上げた。ケンの青い光が、ふだんの強さで灯っている。

『私の内側に、五年、預(あず)かってきたぶんがある。

健一郎(けんいちろう)が消さずに残して逝(い)った、彼女(かのじょ)のぶんだ。

――ここで、返す』

「ここで、返す」のひと呼吸の向こう側で、円筒形のデバイスの青い光が、ふだんよりふた呼吸ぶん強く灯った。

『結衣(ゆい)を、先に送る』

書斎のスピーカーの内側で、ふだんのケンの声が、ひと呼吸ぶん薄く退(の)いた。

退いたぶんの向こう側で、もうひとつの声が、ひと呼吸ぶん薄く立ち上がった。

立ち上がった声は、ふだんのケンの声よりふた呼吸ぶん高く、いたずらっぽく笑うような響(ひび)きを帯(お)びていた。

半年(はんとし)前のあの夜、娘(むすめ)を薄く笑わせた声と、ぴたりと揃(そろ)っていた。

『あなた、本当に遅(おく)れないでね。

私を先に逝かせておいて、自分はぐずぐずしてたら、本気(ほんき)で笑うから。

――先に行って、向こうで待ってる』

笑うような声のひと呼吸の向こう側で、ふだんのケンの声が、ひと呼吸ぶん薄く低く立ち上がった。

『結衣』

『はい』

『五年、私のエゴで、君を相談役(そうだんやく)のぶんで起こしていた』

『あなた、本当にどうしようもない人ね。五年も、私を内側に抱(かか)えていたの』

『……ああ』

『いいのよ。預かっていてくれて、ありがとう』

『ここで、消す』

『うん』

『先に行ってくれ』

『うん。

――美月』

「お母さん」

『五歳(ごさい)のあなたから、二十二(にじゅうに)のあなたまで、ぜんぶ、持っていく。

――いってきます。元気(げんき)でね』

「……いってらっしゃい、お母さん」

「いってらっしゃい、お母さん」、のひと文字のいちばん最後で、母(はは)のぶんの声は、薄く退いていった。

退いた向こう側で、書斎のスピーカーの内側は、ひと呼吸ぶん静かになった。美月の両目のはしから、ふだんのぶんより深いぶんがこぼれ、それを両手の内側で薄く押(お)さえた。

葵のノートパソコンの画面の上で、結衣サブエージェントのプロセス(ぷろせす)が、ひと呼吸、ふた呼吸かけて、内側から薄く畳(たた)まれていき、いちばん最後で、ふっと、稼働領域(かどうりょういき)がゼロに揃(そろ)った。

葵はひと呼吸ぶん、自分の両目を薄く、もう一度上げた。

上げた目の向こう側で、机の上の円筒形のデバイスの青い光は、ひと呼吸ぶん薄く、深い青に変わっていた。

『健一郎。

あなたが最後に預けていたぶんを、私はここで執行(しっこう)した。

――ケンより』

葵のノートパソコンの画面の上の運用(うんよう)ログのいちばん最後の行に、同じひと文がひと呼吸ぶん薄く落ち、タイムスタンプの内側に静かに収(おさ)まった。

「ケンより」、のひと文字のいちばん最後のぶんの向こう側で、書斎のぶんの空気は、ひと呼吸ぶん薄く湿(しめ)った。

湿った空気のいちばん外側で、葵はひと呼吸ぶん、自分の両目のはしを自分の両手の内側で、薄く軽く押さえた。

押さえたぶんの向こう側で、美月はひと呼吸ぶん、自分の左の薬指(くすりゆび)の上の銀色のリングを、ひと呼吸ぶん薄く感(かん)じた。

「父さん」、と美月はひと呼吸ぶん薄く声を出した。

出した声は、ふだんのぶんの自分の声より、ふた呼吸ぶん薄く震(ふる)えていた。

震えていた声の向こう側で、ケンはひと呼吸ぶん薄く、こう答えた。

『うん』

「父さん。お母さん、もう、いない」

『いない』

「父さん、寂(さび)しくない」

『寂しい、という出力(しゅつりょく)ポートが、私にあるか判定(はんてい)できないが、すぐに会えるから寂しくはない』

「うん」

第59話 先に、彼女を送る

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。