第9話

ロティ・スマート

その店は、ある日、駅前にあった。

工事の囲(かこ)いがいつ立ったのか、美月(みつき)は思い出せなかった。囲いが取れたとき、建物は、前からそこに建っていたような顔で、白く立っていた。

ロティ・スマート、と看板(かんばん)に書かれていた。

ロゴの下に、小さな字で「無人運営(むじんうんえい)/二十四時間営業(えいぎょう)/全皿(ぜんさら)ワンコイン」と並んでいた。入口(いりぐち)は自動(じどう)ドアで、ガラスの向こうに、銀色(ぎんいろ)のアームが見えた。アームは、フライパンを持っていた。

アームは、卵液(らんえき)を流(なが)し込(こ)み、撹拌(かくはん)し、火を弱(よわ)め、皿に滑(すべ)らせるまでを、迷(まよ)いなく完遂(かんすい)していた。美月が銀杏亭(いちょうてい)の土間(どま)で、ようやくマットの二歩手前を見るようになるまでに、一年半かかった。アームは、その動作(どうさ)を、最初からそこにあったものとして、繰(く)り返(かえ)しているように見えた。

美月は、その朝、開店前(かいてんまえ)のその店の前で、二分ほど立ち止まった。

通(とお)り過ぎる人は、あまり振(ふ)り返(かえ)らなかった。何度かこの街でも、似(に)たような店が出来(でき)てはまた潰(つぶ)れていた。だがロティ・スマートは違う、という噂(うわさ)は、銀杏亭(いちょうてい)の客同士の会話の端(はし)にすでに上っていた。違うらしい、という言い方で。

夜、美月は西村(にしむら)と二人で、店のテレビを見ていた。

銀杏亭は、ホールにブラウン管(かん)時代から置いてある古いテレビが一台あって、客のいない時間帯(じかんたい)には、西村がそれを点(つ)けていることがあった。音量(おんりょう)は最低まで絞(しぼ)られていて、字幕(じまく)だけがちらちら流れていた。

その夜、画面に、若い男が出ていた。

仕立(した)ての良いシャツに、エプロンはしていなかった。手も汚(よご)れていなかった。司会者(しかいしゃ)が「シェフ」と呼(よ)びかけ、男は薄(うす)く笑った。

シェフはもう要らない時代だ。

字幕が、そう出た。

美月は、皿を拭(ふ)く手を止めなかった。西村も止めなかった。だが二人とも、画面のその一行を見ていた。

料理は、データで決まる。

字幕は、淡々(たんたん)と続いた。

「桐生(きりゅう)……涼(りょう)」

美月は、字幕の下の名前を、声に出さずに口の中だけで読んだ。読んだ瞬間(しゅんかん)に、なぜかその名前が、舌(した)の奥(おく)に残った。

「知ってるか」

西村が、皿を拭きながら、言った。

「いえ」

「うちの孫(まご)がな、こいつのファンらしい」

「お孫さん、おいくつでしたっけ」

「中三(ちゅうさん)だ。塾(じゅく)の帰りに、ロティ・スマートに寄(よ)って、ハンバーグを食って帰るらしい。一個五百円。うちの一番安いランチの、半額(はんがく)以下だ」

西村は、皿を棚(たな)に戻しかけて、一度だけ、手を止めた。

「……あと、一年、もつかな」

止めた手を、そのまま、棚の縁(ふち)に置いた。それ以上は、何も言わなかった。

二週間が経(た)った。

銀杏亭の昼の常連(じょうれん)が、週に三回はオムライスを食べに来ていた近所の歯科衛生士(しかえいせいし)の男が、来なくなった。理由を、誰も口にしなかった。

四週間目に、西村は、ランチのスープを一品(いっぴん)減(へ)らした。

美月は、丼(どんぶり)と、玉(たま)ねぎと、最近はパセリも刻(きざ)んでいた。配膳(はいぜん)には、まだ出されていなかった。だが客の数が減(へ)っていることは、丼の枚数(まいすう)で分かった。賄(まかな)いのバターはいつのまにかマーガリンに変わり、フライパンに落とすときの、油(あぶら)のはじける音が、少しだけ低くなった。西村は何も言わなかった。美月も、訊(き)かなかった。

シフトの終わりに渡される封筒(ふうとう)も、先月より、わずかに薄(うす)かった。

ある日、ホール係の須藤(すどう)が、配膳から戻ってきて、ぽつりと言った。

「桐生って人、また出てたよ」

「テレビですか」

「ううん。雑誌(ざっし)。私が美容院(びよういん)で読んだやつ。『食べないシェフ』って特集(とくしゅう)」

「そうですか」

「美月ちゃん、聞いたことある? その人」

「……あります」

「お父さんと、関係ある?」

美月は、玉ねぎを刻む手を、止めた。

「え?」

「いや、ごめん。あんたの苗字(みょうじ)、佐倉(さくら)でしょ。雑誌にね、その桐生って人の経歴(けいれき)が載(の)ってて、佐倉健一郎(さくらけんいちろう)研究室の元(もと)・主任研究員(しゅにんけんきゅういん)、ってはっきり書いてあった。同じ苗字(みょうじ)だなあ、と思って」

須藤は、それ以上は深追(ふかお)いしなかった。エプロンを直して、ホールに戻った。

美月は、刻(きざ)みかけの玉ねぎの前で、しばらく動かなかった。

父の大学。父は、自分の研究室の卒業生(そつぎょうせい)のことを、家ではほとんど話さなかった。

その夜、家に帰ってから、美月は書斎(しょさい)のデバイスに尋(たず)ねなかった。

尋ねれば、機械は答えるだろう。父の研究室の卒業生のリストも、桐生という名前が含(ふく)まれているかどうかも、たぶん即座(そくざ)に出てくる。だが美月は、なぜか、その夜は尋ねなかった。

代わりに、テレビを点(つ)けた。

ニュースの後の情報番組(じょうほうばんぐみ)で、ちょうど、ロティ・スマートの特集が流れていた。アームがフライパンを振(ふ)っていた。卵液(らんえき)を流(なが)し込(こ)み、火を弱め、皿に滑(すべ)らせるまでが、ぴったり七十二秒だった。アナウンサーが、その時間を読(よ)み上(あ)げていた。

最後に、画面の隅(すみ)に、桐生の顔が、ほんの数秒だけ映(うつ)った。

「シェフはもう要らない時代だ」

字幕は、前に見たのと同じ一行だった。

美月は、リモコンに手を伸(の)ばした。

『美月』

機械が言った。

「ん」

『テレビを、消(け)すか』

「……消す」

美月は、消した。

「桐生」

声に出してから、自分が出したことに気づいた。誰に向けたのでもなかった。舌の上に、その二音だけが、しばらく残った。

書斎のドアは、閉(し)まっていた。閉まったドアの向こうで、デバイスの青い光が、廊下(ろうか)の隙間(すきま)から細く漏(も)れていた。

その光を、美月は、しばらく見ていた。

書斎の中の機械は、その夜、自分から美月に話しかけてはこなかった。

第9話 ロティ・スマート

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。