第51話

家を出る

浴室(よくしつ)を出て、寝室(しんしつ)に戻った。

ベッドの脇(わき)に、ゆうべのうちに詰(つ)めた支度(したく)バッグが置かれていた。

口を開(あ)けると、控室(ひかえしつ)で直(なお)すぶんのネイルの小瓶(こびん)と、目薬(めぐすり)と、替(か)えのインナーが、ふだんの並(なら)びで入っていた。ドレスとヘアメイクは、式場(しきじょう)の控室で入ることになっている。

下のインナーだけ式のぶんに替(か)えて、上はジャケットとシャツに着替(きが)えた。昨日(きのう)塗(ぬ)ったネイルの右の薬指(くすりゆび)の先が、ひと呼吸(こきゅう)ぶん欠(か)けていた。控室で直してもらう、と決めた。

左の薬指の銀色(ぎんいろ)のリングは、朝の白さに照(て)らされていた。

支度バッグを片手(かたて)に提(さ)げると、中の小瓶が薄(うす)く鳴(な)った。寝室のドアを閉(し)めた。

廊下(ろうか)のいちばん奥(おく)で、書斎(しょさい)のドアは開(あ)いたままだった。内側で、円筒形(えんとうけい)のデバイスの青い光が灯(とも)っていた。

支度バッグを、玄関(げんかん)の土間(どま)の横の椅子(いす)の上に置いた。玄関のドアの外で、透(とおる)の車のエンジンの音が、ひと呼吸ぶん立っていた。

廊下のいちばん奥の書斎のドアの前(まえ)まで戻った。

ケンの青い光は、灯ったまま、待(ま)っていた。

「父さん。行ってくる」

『行ってくる』

「うん。家、出る前の段取(だんど)り、ぜんぶ葵さんに預(あず)けた。父さん、披露宴(ひろうえん)で何か話す?」

『……話す』

「いつ決めた?」

『ゆうべのいちばん最後で決めた』

「父さん、原稿(げんこう)ある?」

『原稿はない。ないぶんで話す』

美月は書斎のドアの内側に半歩(はんぽ)入った。机(つくえ)の上の円筒形のデバイスの表面(ひょうめん)に、自分の影(かげ)が薄く映(うつ)った。

美月は両手(りょうて)を、左の薬指の銀色のリングの上に添(そ)えた。リングは、ケンの青い光に照らされていた。

「父さん。わたし家を出る」

『夕方(ゆうがた)、控室でまた会(あ)おう』

「父さん」

『美月(みつき)』

「……」

「行ってきます」

『行ってきなさい』

美月は書斎のドアを、半分まで閉めた。

ひと言も口に出さず、玄関の土間まで戻った。

土間の上でローファーを履(は)き、支度バッグをもう一度片手に提げて、玄関のドアを開けた。

運転席(うんてんせき)の透が、こちらを見た。朝の空気(くうき)は、白く立っていた。

「美月。お父さんに行ってきます、言いましたか」

「言った」

「お父さん、なんて言ってましたか」

「『行ってきなさい』って」

「いつものお父さんですね」

「うん。いつものお父さんだった」

美月は支度バッグを、後部座席(こうぶざせき)に置いた。玄関のドアを、外側から押(お)した。

廊下のいちばん奥で、書斎の半分閉(し)まったドアの内側の青い光が、灯っていた。冷蔵庫のドアの紙の「1」のひと文字は、朝の白さに照らされていた。

玄関のドアが、外側で閉じた。

助手席(じょしゅせき)に座(すわ)り、ベルトを引(ひ)いた。車は走(はし)り出した。

家の書斎の青い光は、もう見えない向こう側で、ふだんの強さで灯(とも)り続(つづ)けていた、はずだった。

第51話 家を出る

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。