第63話

局所解の谷から

葵(あおい)の論文が事前共有(じぜんきょうゆう)された夜から、七日が経っていた。

七日のいちばん最後の昼下(ひるさ)がり、銀杏亭(いちょうてい)の休憩時間(きゅうけいじかん)。厨房(ちゅうぼう)の手前のいちばん奥のテーブルの上に、料理雑誌(りょうりざっし)の最新号(さいしんごう)が、ふだんの距離で置かれていた。

置かれていた表紙(ひょうし)の角(かど)に、窓越しの初秋(しょしゅう)の光が、ひと呼吸ぶん薄く落ちていた。

落ちた光のいちばん最後で、美月(みつき)はふだんの白衣(はくい)の前で椅子(いす)を引き、腰を下ろし、ふだんの表紙を、ひと呼吸ぶんゆっくりと、めくった。

めくった表紙の向こう側で、ふだんの目次(もくじ)のページのいちばん下の片隅(かたすみ)に、ふだんの本文より、ひと呼吸ぶん薄く小さなコラムの欄(らん)が立っていた。

立っていたコラムの欄のいちばん上に、ふだんの大きさより、ひと呼吸ぶん薄く小さな見出(みだ)しが、ふた呼吸ぶん薄く立っていた。

立っていた見出しは、こう書かれていた。

ロティ・スマートの桐生(きりゅう) 涼(りょう)、新メニュー開発を一時休止(いちじきゅうし)

見出しのすぐ下で、ふだんの本文より、ひと呼吸ぶん薄く短い文章が、ふた呼吸ぶん深く立っていた。

立っていた文章のいちばん最後の行に、桐生本人のコメントが、ふだんの距離でひと呼吸ぶん深く置かれていた。

置かれていたコメントは、こう書かれていた。

局所解(きょくしょかい)の谷(たに)から、一度出てみようと思う。少し、自分の舌(した)で食べてみる。AIだけで同じ地点(ちてん)に辿(たど)り着けるかは、それから測(はか)り直す。

「同じ地点に辿り着けるかは、それから測り直す」、のひと文字のいちばん最後で、美月は雑誌のページのいちばん上の角を、ひと呼吸ぶん薄く、右のひとさし指で押(お)さえた。

押さえた指先の向こう側で、コラムの文字は、ふだんの距離で立ったままだった。

立ったままの文字を、美月はもう一度、ひと呼吸、ふた呼吸ぶん深く読み返した。

読み返したふた呼吸のいちばん最後で、美月の口のいちばん端(はし)は、ふだんより、ひと呼吸ぶん深く、ほんのわずかに上がった。声を出さずに、薄く笑った。

笑ったいちばん最後で、美月のひと呼吸の内側に、葵の論文のひと文字が、ふだんの距離で立ち上がった。

立ち上がった文字の向こう側で、——たぶん桐生も、葵と同じだ、と美月は思った。一度、自分の舌で測り直して、それから、AIで、父の長い記憶の壁(かべ)を、自分の側から、越(こ)えていく。やり方はちがう。立つ場所もちがう。それでも、父がひとりで越えられなかった壁を、ふたりは別々(べつべつ)の角度(かくど)から、AIで越えていく。父のやり残したぶんを、敵対者だった男と、若い研究者が、知らないうちに、引き継いでいる。

思ったいちばん最後で、白衣の左の胸(むね)ポケットの内側の薄い端末(たんまつ)は、ふだんの距離で、ひと呼吸ぶん、震(ふる)えなかった。

震えなかったいちばん最後で、銀杏亭のふだんの厨房の窓越しの初秋の昼下がりの白さは、ふだんの強さで、雑誌の表紙の角の上に、まだ落ちたままだった。

落ちたままの白さのいちばん最後で、美月はひと呼吸ぶん薄く、右の手のひらで、コラムの文字の上の紙の上を撫(な)でた。

撫でた指先の向こう側で、桐生のコメントの「同じ地点に辿り着けるかは、それから測り直す」、のひと文字は、ふだんの紙のかたちのまま、ひと呼吸ぶん薄く、立っていた。

立っていた文字のいちばん最後で、銀杏亭の厨房のいちばん奥の壁(かべ)の時計の針(はり)は、ふだんの位置で、ひと呼吸ぶん薄く、次のひと呼吸へ、進(すす)んだ。

進んだ針の向こう側で、休憩時間のいちばん最後のひと呼吸が、ふだんの強さで立ち上がった。

立ち上がったぶんの向こう側で、美月はふだんの白衣の前のふだんの位置で、ひと呼吸ぶん椅子を引いて、立ち上がった。

立ち上がった両手の内側で、雑誌のふだんの表紙を、ひと呼吸ぶんゆっくりと、閉じた。

閉じたいちばん最後で、白衣の胸ポケットの内側の薄い端末が、ひと呼吸ぶん薄く震えた。

震えた向こう側で、画面のいちばん上に、透(とおる)からのひと言が、ふだんの距離で立ち上がっていた。

今夜、なに食べたい。

立ち上がったひと言の向こう側で、美月は声を出さずに、ひと呼吸ぶん薄く、もう一度笑った。

笑ったいちばん最後で、画面のいちばん下に、自分の右のひとさし指で、ふだんの距離でこう返した。

オムレツ

返したひと文字のいちばん最後で、美月は厨房のいちばん奥の籠(かご)から、ふだんの卵(たまご)を四個、両手の内側に取った。

取ったいちばん最後で、もうひとつ、五個めの卵を、ひと呼吸ぶん余分に手のひらに乗せた。乗せた重みを、美月はひと呼吸ぶん測(はか)り、それから、もう一度、籠の元の位置に、ひと呼吸ぶんゆっくりと戻した。

取った四個の卵の重(おも)みを、美月はふた呼吸ぶん深く感じた。

感じた重みのいちばん最後で、フライパンの前まで、ひと呼吸ぶん歩いた。

銀杏亭の窓越しの初秋の光は、ふだんの強さで、フライパンの表面(ひょうめん)の上に、触(ふ)れていた。

触れていた光のいちばん最後で、ふだんの厨房のいちばん奥は、ひと呼吸ぶん、何も起きないまま、立っていた。

第63話 局所解の谷から

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。