対決の前夜だった。
十二日のうち、十一日が過ぎていた。
毎晩、銀杏亭の片付けが終わってから、家の台所に戻り、卵を十個出してきた。
最初の三日の夜は、卵を割らなかった。
書斎の机の上で、ケンが、審査員三人分の地図を作っていた。
雑誌の編集部から事前に届いた審査員リストは、三名分だった。二名は誌面側の固定枠──編集長と、食評家がひとり。残りの一名は、編集部が抽選で選んだ一般読者だった。固定枠の二人については過去の誌面の文章が、論評と短い随筆と回顧が、それぞれの名前で何十本と残っていた。一般読者の一名は、応募時に書かせた年齢と性別と職業と、出身地と、好きな店をひとつ。それだけだった。
ケンはその三名分から、三人の評価関数を粗く推定した。
『二人分は、過去の誌面の文章から、それなりに細かく当てられる。──残りの一人分は、年代と性別の平均くらいの粗さだ』
「うん」
『三人それぞれの谷の底は、別々に絞った。──だが、三人いっぺんに当てるレシピはない。三人の評価関数を平均した最大公約数の谷──三人の誰もがそこそこ好む、無難な一皿の底だ。そこで正面から戦えば、毎日十万人の口を相手にならしてきた桐生のロボットに割り負ける。あれは、平均値の谷を降りる仕事のために設計されている』
『桐生のロボットが、明日どんな一皿を出してくるか、ロティ・スマートの店舗データから推定した。──卵に合挽肉と玉ねぎを混ぜ込んで、皿の上にケチャップをひと筋走らせる。チェーン店の客のレビュー十万人ぶんで自動チューニングした、外食中央値の一皿だ。家庭の朝食の谷ではなく、外食の谷の底だな』
「具入り」
『具入りだ。──十万人の咀嚼回数と滞在時間と食べ残し量で最適化すれば、必ずそこに降りる。プレーンの卵だけでは、外食客の中央値には届かない』
「私のとは、別の方角」
『別の方角だ。──だが、降り方の仕組みは同じだ。データの中央値に降りる、という意味では』
ケンはそこで、しばらく黙った。
『だから、戦い方を変える。──素性のわかる二人、編集長と食評家、その二人ぶんの評価関数だけを足し合わせて、ひとつの合成評価関数を組み直す。素性のほとんど分からない一般読者の一票は、桐生のロボットに譲る』
「二人だけの」
『同じ平均でも、足し合わせる相手の数が違うから、谷は別の場所に立つ。──そちらの谷に届く一皿を出せば、二人ともこちらに振れる。三人だから、二票で勝つ』
「……うん」
『その合成の谷に降りるための初期点が、いくつか要る。──私の手元のレシピデータベースの上の、どこから降りはじめても、そこには辿り着けない。別の場所から降りる必要がある』
「初期点」
『その別の場所は、私の中にはない。──君の舌の中にある』
四日目の夜から、卵を割った。
最初に口を開くのは、いつもケンの方だった。
『今夜の初期点を、ひとつ選ぼう』
『食評家の方は六十がらみ、昔ながらの洋食屋の重い一皿を誌面に何度も引いてくる。バターと塩が立って、焦げが長い方を懐かしむ世代だ。──編集長は四十代、和と洋の境の世代だな。家庭の卵焼きの出汁の記憶を、洋風のオムレツの上にも重ねて読む。塩は控えめ、焦げを風味として書く方角だ』
『食評家の舌の長期記憶は、グリュイエールに近い線だ。──銀杏亭の塊を、夜のあいだだけ借りてこられるか』
「借りてこられる」
数字は出さなかった。ケンも、二人ぶんの過去の文章の言い回しから読み取れる味の輪郭だけを、言葉で並べた。
美月はそれを受けた。
舌の上に、父が五歳から十七歳までの十二年のあいだに焼いた数えきれない皿のうち、特に舌が覚えている特徴的な数十枚の不揃いなオムレツの輪郭が、ひと皿ずつ並んでいた。熱を出した冬の朝の、塩だけの薄い一皿。十歳の誕生日の、ケチャップが赤く滲んだ厚焼き。──父はたぶん、何も考えずに、その朝その朝の手の癖だけで焼いていた。意図して数十枚の違う皿を娘に食べさせようとしたわけではなかったはずだった。
ただ、結果として、それらの皿が、いま美月の舌の中に残っていた。
ケンの手元のレシピデータベースの上には、ない皿だった。
その数十枚の中から、美月はケンの渡してきた方角にいちばん近いものを、舌で探した。ひとつ、見つかった。
──中学に上がった春、母の三回忌の翌朝。父はその朝、台所で何も言わずに卵を割った。卵をボウルに落とす音が、その日だけ妙に硬かった。フライパンの向こう側の縁に、焦げが端まで長く伸びていた。塩は普段より強く立っていた。美月は半分も食べきれなかった。半分残した皿を、父はその夜、自分で洗っていた。──舌が、その朝の皿の輪郭を、いまも憶えていた。
「──三回忌の翌朝の、焦げの長いやつ。あれが、いちばん近い」
『塩は』
「強かった。父さんはその朝、塩をいれすぎてた」
『チーズは』
「入ってなかった」
『火は』
「強かった。フライパンの向こう側の縁に、焦げが端まで長く伸びてた」
ケンはそれを受けた。
『その皿を、初期点にする。──そこから、二人の合成評価関数の上で、降りていく』
書斎の青い光の中で、ケンは三回忌の翌朝の皿の近傍を、二人ぶんを足し合わせた評価関数の上で最適化した。最適化してから、桐生のロボットの三人平均の谷の軌道から最も離れたものを、いくつか数値で返してきた。
『一案。塩〇・八グラム、生クリーム大さじ二分の一、チーズ十八グラム、火百七十五度、撹拌秒速三回転』
『二案。塩一・〇、生クリーム大さじ三分の二、チーズ二十、火百七十、秒速二・五』
『三案。塩〇・六、生クリーム大さじ三分の一、チーズ十六、火百八十、秒速三・五』
──三つは、いずれも三回忌の翌朝の皿を出発点にして、二人の合成の谷の方角に降りていった、近くの三つの底だった。
ただし──谷の底が、父の三回忌の翌朝の皿そのものに重なることは、最後まで一度もなかった。合成の地図の上にだけ立ち上がる、見知らぬ朝の谷だった。
「三つ、順に焼く」
『了解した』
流しの脇には、前夜のうちに銀杏亭から借りてきた、〇・〇一グラムまで降りる小型の業務用スケールが置いてあった。
美月は候補を一つずつ焼いた。焼いて、自分の舌で比べた。比べた感想を、また言葉でケンに返した。「一案は、舌の先が痺れる。塩が尖ってて、卵の甘みが後ろに隠れる」「二案は、チーズが舌の上に長く居残る。卵の風味が下に沈んで上がってこない」「三案は、焦げの香ばしさがほとんど抜けてる。後味が甘いだけで、苦みが立たない」
絞っては焼き、焼いては返す。ケンはそのたびに候補を絞り、夜ごとに初期点を取り替えた。熱を出した朝の薄い一皿、十歳の誕生日の厚焼き、三回忌の翌朝の焦げの長い一皿──舌の中の数十枚の皿をひと晩にひとつずつ呼び出しては、ケンが合成評価関数の上を、別の出発点から降り直した。
毎晩、皿の上に十個分のオムレツが並んだ。
並んだ皿は、美月自身は写真に撮らずに片付けた。代わりに、耳飾りの内側の小さなカメラが、皿が机に置かれて美月が見下ろすたびに、その視線の高さから一枚ずつ静かに撮っていた。焦げの長さ、茶色い線の太さ、卵の断面から覗くチーズの白い欠片の散り方──見た目もまた一つの情報として、ケンの手元に画像で蓄えられていった。一日、二日、三日と、夜が重なるごとに、ケンの局所解はますます的確に深く沈み、美月の舌の指す初期点は、父の十二年分の不揃いな皿の、どれかひとつの輪郭の上に少しずつ寄っていった。最後の数日は、ほとんど同じ場所に同じ茶色い線が入るようになっていた。
最後の夜だった。
美月は台所の流しの前で手を洗った。
エプロンの紐を後ろで結び直した。銀杏亭の白いコックコート用のではなく、家の台所用の紺色の麻のエプロンだった。半年前から、家の試作の夜にだけ使ってきた一枚だった。
書斎の机の上のケンと、美月の耳飾りは、家の中のLAN越しに繋がっていた。
美月は書斎で円筒の脇のケースを開け、耳飾りを耳に掛けて台所に戻った。右の耳の奥で、骨を通る振動が、ふだんの位置に灯った。
「父さん。今夜、最後の試作。明日、本番。いまから、卵、十個出すね」
『了解した。十一日分の試作から、最終候補を三つに絞った。──今夜はその三つを順に焼いて、君の舌で、最後に一つを選んでくれ』
「うん」
『耳飾りのカメラが撮ってきた十一日分の皿の見た目と、君の口頭の感想と、温度・分量・撹拌の数値を、合わせて絞り込んである。どれも、舌の中の数十枚の皿のどれかを初期点に置き直して、二人ぶんの合成評価関数の谷へ降りた、近くの三つの底だ』
「聞かせて」
『一案。摂氏百七十五度、バター九グラム、塩〇・八グラム、生クリーム大さじ二分の一、チーズ十八グラム、撹拌秒速三回転。──十歳の誕生日の厚焼きの近傍だ』
『二案。摂氏百八十五度、バター十グラム、塩一・〇グラム、生クリーム大さじ一、チーズ二十グラム、撹拌秒速四回転。──三回忌の翌朝の、焦げの長い皿の近傍だ』
『三案。摂氏百八十度、バター十グラム、塩〇・六グラム、生クリーム大さじ三分の一、チーズ十六グラム、撹拌秒速三・五回転。──熱を出した冬の朝の、薄い一皿の近傍だ』
「三つ、順に焼く」
『了解した』
冷蔵庫から、卵を十個出した。
最初の三皿は、それぞれ一人前ずつの試し皿だった。
一皿目、一案。秒速三回転で奥から手前に撹拌し、火を弱め、フライパンを傾けた。向こう側の縁に、淡い茶色い線が入った。
二皿目、二案。秒速四回転。火を強めに保ったまま、寄り切る半秒先まで縁を火に預けた。茶色い線は、一皿目よりも太く、長く入った。
三皿目、三案。秒速三・五回転。塩は最も控えめだった。茶色い線は、二案より細く、内側寄りに入った。
三皿を並べた。
並べた三皿を見下ろして、美月は小さく気づいた。──ケンの数値どおりに焼いたはずの三皿とも、焦げの位置が、銀杏亭で毎日入れている角度のほうへ、ほんの少しずつ寄っていた。手の中に、半年分の癖が残っていた。
美月はフォークを順に入れた。
一皿目。「厚みはあるけど、焦げが弱い。香ばしさが舌の奥まで届かなくて、後味が早く抜ける」
二皿目。「塩のあたりが落ち着いてる。焦げの香ばしさが、舌の奥まで届く。卵の甘みが、焦げに引き上げられて立ち上がる」
三皿目。「塩が薄くて、卵だけがまっすぐ立ち上がる。きれいだけど、二人ぶんの谷からはいちばん遠い気がする」
『どれを選ぶ』
「二案。あれが、いちばん遠くまで届く」
ケンはしばらく間を置いた。
『私の絞り込みも、二案だった。──十一日分の数値の上で、二案の谷がもっとも深い』
「重なった」
『重なった』
『四皿目から、二案を基準に、最後の確認をする』
美月は四つ目の卵を、ボウルに割った。
割りながら、ケンに声をかけた。
「父さん」
『うん』
「四皿目から、温度と分量と火加減は、二案でいい。だけど、最後の一手は、私が決める」
『分かった』
ケンは、二案の数値をもう一度ひとつずつ告げた。摂氏百八十五度。バター十グラム。塩一・〇グラム。生クリーム大さじ一。グリュイエール二十グラム。卵三個。撹拌の秒速、四回転。──美月はそのひとつひとつに、短く頷いて返した。
『フライパンを傾けるのは、卵の向こう側の縁が、銀杏亭でいつも入る位置に寄ってからの半秒後。──ここから先は、君の判断だ』
美月は頷いた。
頷いてから、ケンの出した数値の上に、自分の手を重ねた。
塩は、ケンの言ったとおりにした。父が朝に焼いていたオムレツは、いつも、ほんの少しだけ塩が強かった。あの強さを思い出しかけて、美月はその記憶を一度、舌の奥に押し戻した。今日の審査員は、年配の食評家と編集長だった。父の朝の塩は、たぶん、そのふたりの舌には尖って届く。今日は、ケンの方を信じる。
チーズも、ケンの言ったとおり、二十グラムをグリュイエールの塊から量って削った。半年前のまかないの夜、銀杏亭の厨房で自分の手が勝手に止まった、その量とは違う量だった。今日は、家庭の母の味の方角に、控えめに寄せる。手の癖は、舌の奥でじっとしていてもらった。
フライパンを火にかけた。
ケンの声が、頭の中で温度を見ていた。
バターを落とした。ちょうど十グラムだった。
卵液を流し込んだ。
奥から手前に撹拌した。秒速は、ケンの四回転に揃えた。揃えたのは自分の手だった。意識して揃えた、というよりは、もう揃ってしまっていた。
火を弱めた。
フライパンを傾けた。
向こう側の縁を、銀杏亭でいつも入る位置に寄せた。
ここまでは、ケンの言う最適化の上だった。
ここから先が、自分の一手だった。
寄り切る半秒後。
美月はフライパンの向こう側の縁を、ほんの少しだけ長く火に預けた。
ケンの評価関数では、ここで火から外すはずだった。
外さなかった。
茶色い線が、いつもよりほんの少しだけ太く入った。
長い焦げ、というほどではなかった。
ただ、銀杏亭で毎日入れてきた線よりも、半段深い線だった。
皿に滑らせた。
四皿目が、机の上に置かれた。
「父さん。焦げ、いつもより半段深くした」
『見ている』
「コメント、ある?」
ケンはしばらく間を置いた。
『──ある』
「言って」
『三人の平均の評価関数では、これは〇・八点減点される。桐生のロボットの評価関数でも、たぶん同じくらい減点される』
「うん」
『だが、素性のわかる二人だけを足し合わせた合成評価関数の谷では、加点される』
「……加点される」
『食評家は、戦後の洋食屋の昼の重い一皿を、いまでも懐かしんで誌面に書く世代だ。半段深い焦げは、あの舌の長期記憶に長く残っている線だ。──編集長も、焦げを風味として書く方角だ。三人平均では削られるその半段が、二人ぶんの合成の谷では、逆に底のほうへ引いてくれる』
美月はフォークを手に取った。
四皿目のオムレツを、口に運んだ。
塩。バター。生クリーム。チーズ。
そして、向こう側の半段深い焦げ。
口の中で、焦げがいつもよりわずかに強く香った。香ばしい、と苦い、のちょうど境目だった。
あのまかないの夜の味の、ほんの少しだけ外側だった。
「……父さん。《《外側》》、出た。銀杏亭の半年の手の外側」
『……』
「これ、銀杏亭で毎日出してる線じゃない。明日、これ出す」
『了解した』
美月はフォークを置いた。
椅子に座った。台所の丸い木の椅子だった。
書斎の青い光は、台所まで届かなかった。代わりに、台所の天井の蛍光灯の白い光が、机の上の皿を照らしていた。
その白い光の下で、机の上の四皿目のオムレツが、ほんの少しだけいびつに横たわっていた。
ケンの声が続いた。
『私と桐生のロボットは、本来、同じ仕組みで谷の底に降りる。──思い出してくれ。葬儀の翌朝、私が君に焼かせた、あの家庭朝食の中央値の一皿を。私は家庭の谷に、桐生のロボットは外食の谷に、それぞれの中央値の底まで降りた。形は似ていない。だが、降り方は、同じだ』
美月はしばらく、何も言えなかった。
「父さん。明日、私が出すべき一皿は」
『私たちが持っているのは、素性のわかる二人を足し合わせた、粗い合成の谷だ。完全に揃った日の桐生のロボットの三人平均の谷とは、形からして勝負にならない。──だが、君の手の中の五歳までの台所の匂いと、あの夜のログの中の焦げを隠したチーズと、お父さんのずるい、ひとつの夜の独り言は、私の手元のレシピデータベースの上には乗っていない初期点だ。明日、君がそれを卵に混ぜ込む。当たれば、二票で勝つ』
「当たらなければ」
『負ける。それでも、私はそれでいいと思っている』
「……」
『明日の対決が終わったら、また、いつもの谷に戻ろう』
「うん」
美月はフォークを、もう一度皿に向けた。
四皿目のオムレツは、もう半分以上なくなっていた。
「父さん。五皿目から、もう一回。同じ温度、同じ分量、同じ撹拌で」
『了解した』
「焦げの長さだけ、私が決める」
『了解した』
五皿目から十皿目まで、続けて焼いた。並んだ七皿は同じ顔をしていた。向こう側の縁に半段深い茶色い線が入り、グリュイエールの白い欠片が、卵の断面からわずかに覗いていた。
机の上の白い光が、七皿の上で揺れなかった。
「父さん。明日、これ出す」
『了解した』
「失敗するかも」
『するかもしれない』
「失敗したら」
『失敗でいい』
「……」
『楽しんできたらいい』
「……うん」
美月は七皿のうちの、最後の十皿目のオムレツにフォークを入れた。
口に運んだ。
塩は、ケンの言ったとおりだった。
チーズも、ケンの言ったとおりだった。控えめに香るグリュイエールの欠片が、舌の上で薄く滲んだ。
向こう側の焦げだけが、いつもより半段深く、香ばしく、苦かった。
──父が、母の声に向かって自分の不器用な失敗を白状した、その夜の皿の味の、ほんの少し外側に、自分の舌は立っていた。塩もチーズも控えた抑えた一皿の上で、半段深い焦げだけが、父の朝の手の輪郭を、薄く呼び戻していた。
それは、銀杏亭の半年の手の谷とも、桐生のロボットの谷とも違う、別の谷の底だった。
「父さん。届いた気がする」
『どこに』
「父さんの谷の底」
ケンはしばらく黙った。
『……そうだな』
美月はフォークを置いた。
七皿、ぜんぶ片付けた。一皿だけ、明日のための参考用に、ラップに包んで冷蔵庫に入れた。
エプロンを外した。
麻の紐をほどいて、流しの脇のフックに掛けた。
書斎に戻った。
机の前の椅子に座った。
「父さん。明日の朝、家を出るのは九時。会場の撮影スタジオは、十時入り」
『了解した』
「私は、銀杏亭の白で行く。会場には、あなたを連れて行けない」
『分かっている』
ケンはしばらく黙った。
『君の手が卵を割る、その瞬間に、私はもういない。いないが、君の半年分の手の中に、十一日の夜の台所の温度と、撹拌の秒速と、私の声の語尾の置き方は残っている。それで十分だ』
「残ってる」
美月は椅子の背に頭を預けた。
天井の木目を見た。
その木目の上に、明日の撮影スタジオの白い業務用のフライパンの表面の輪郭が、薄く重なった。
「父さん。明日、勝とう」
『うん』
書斎のドアを、いつもの角度まで引いた。
廊下の青い光は、いつもの細さで伸びていた。
寝室で目を閉じた。
明日の撮影スタジオの業務用のフライパンの表面が、まぶたの裏に立っていた。
その表面の上で、自分の半年分の手と、十一日の夜の手と、五歳までの母の台所の匂いが、ひとつの卵液の形に揺れていた。
その揺れの最後の半秒のところで、自分の手が、フライパンをいつもより〇・五秒長く火に預ける。