第13話 013

二歩、足りない

翌朝の銀杏亭いちょうていだった。

開店前の厨房ちゅうぼうで、美月みつきは卵を六個出した。三人前のまかないではなかった。今日は客に出す。西村にしむらが昨日の夜、そう言った。

ボウルを出した。塩。胡椒こしょう。生クリーム。バター。

冷蔵庫の上段から、まかない用ではない、客に出すための、もう少し質の良いチーズのかたまりを出した。ろし金にあてた。

昨日の夜と同じところで、手が止まった。

止まった瞬間に止めた。「正しい」という言葉は、今日も自分の中で言葉にしなかった。

フライパンを温め、バターを落とし、卵液を流し込んだ。撹拌かくはんの秒速は、家の機械の声が頭の中で勝手に数えていた。本人は聞いていなかった。

火を弱め、フライパンを傾けた。寄り切る一歩手前で、手首の動きが昨日と同じ場所でほんの少しだけ遅れた。

意図したわけではなかったが、意図しないでそうなる、ということを美月はすでに知ってしまっていた。

向こう側のふちに、茶色い線が入った。

皿に滑らせた。

西村がホールから戻ってきた。皿を見た。

それから何も言わずに、ホールへ運んでいった。

その日の客は三人だった。

最後の組の、四人連れの中の年配の男が、皿を空にしてからフォークを置いて、しばらく空の皿を見ていた。

「お父さん、どうしたの」

連れの女性が顔をのぞき込んだ。男はフォークを皿の上にそろえて置いた。

「──昔、母がこういうのを子供のころに焼いてくれた」

女性は何も言わなかった。

会計を済ませて、店を出ていった。美月は厨房の奥からその背中を見ていた。

夕方、賄いの席で、西村はいつもの通り何も言わなかった。

最後の一口を口に運んでから、フォークを皿の縁に置いた。

「明日も、出す」

「はい」

「同じに焼け。同じに焼いて、同じになるかは別の話だ」

「……はい」

西村は湯呑ゆのみを両手で包んだ。

「君の焼くオムレツは、今は、二歩、足りない」

「……二歩、ですか」

「何が足りないかは、私には言えない。うちの店の中で見つかるものなら、私がもう教えている。私の店の中にないものは、君が別の場所で見つけてくるしかない」

美月はフォークを止めた。

「──ただし、明日の客に出す皿は、明日のうちに焼け」

「はい」


裏口から自転車を出すあいだに、エプロンのポケットの中でスマホが二度震えた。莉子りこだった。「今週末あいてる」「あと、桐生きりゅうのリール見た。あれむかつく」。返事は明日でいい、と思った。短く「明日返す」とだけ打って、画面を伏せた。同世代の声は、いつもこのくらいの遠さで届く。今夜の自分の手の止まり方の重さとは、別の温度で。


家に帰った。

書斎しょさいのドアは、いつもと同じ場所で、いつもと同じだけ開いていた。デバイスは青い光をともしていた。

『お帰り』

「ただいま」

『今日は焼いたか』

「焼いた」

『客に出したか』

「出した」

『──』

機械はそれ以上聞かなかった。

美月は、机の前の椅子いすには座らなかった。書斎の入り口に立ったまま、しばらく青い光を見ていた。

「……お父さん。今日は、もう、寝る」

『了解した。おやすみ』

「おやすみ」


寝室しんしつに行った。電気を消した。

西村の言った「二歩」が、頭の中で繰り返された。一歩は、いつか自分の手の中で見つかる気がした。もう一歩は、廊下ろうかの向こうの、父が生前、何かを隠していたらしい場所にある気がした。

目を閉じた。

第13話 二歩、足りない

ページの先頭へ

BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。