第12話

足りない一皿

春先(はるさき)の、銀杏亭(いちょうてい)の朝だった。

店(みせ)のテレビが、朝(あさ)のニュースを小さく流していた。駅の反対側(はんたいがわ)に、ロティ・スマートの二号店が建つ、と字幕(じまく)が流れていた。来月(らいげつ)、開店(かいてん)。工事(こうじ)の囲(かこ)いは、もう立っている。桐生(きりゅう)の顔が、画面の隅(すみ)に、ほんの数秒だけ映(うつ)った。

西村(にしむら)は、テレビの電源(でんげん)を、無言(むごん)で切(き)った。

開店前(かいてんまえ)の厨房(ちゅうぼう)に、美月(みつき)と西村だけがいた。須藤(すどう)は、その日は通院(つういん)で、昼から出てくる予定になっていた。西村は、まかない用の食(しょく)パンをトースターに入れたあと、振(ふ)り返(かえ)って、こう言った。

「君、卵を、焼いてみるか」

「……今日、ですか」

「明日はもう来るな、と言われたいか」

「今日、焼きます」

西村は、笑わなかった。だが目尻(めじり)が、ほんの少しだけ、緩(ゆる)んだ気がした。

「オムレツでいい。三人前。客に出すんじゃない。まかないだ。私と、君と、もう一人分は、須藤の昼の取(と)り置(お)きにする」

「はい」

「卵は、奥(おく)の冷蔵庫(れいぞうこ)の二段目」

「はい」

「あとは、好きにしろ」

西村は、それだけ言って、ホールに出ていった。仕込(しこ)みの続きが、ホール側のテーブルに広(ひろ)げてあるのが、戸口(とぐち)から見えた。

美月は、ボウルを出した。

冷蔵庫から、卵を六個取り出した。三人前なら、卵は九個でも良かった。だが美月は、六個にした。一人前あたり二個。卵を多くしすぎると、生地(きじ)が膨(ふく)らみすぎて、自分が今日、手の中に収(おさ)められる気がしなかった。

塩(しお)。胡椒(こしょう)。生(なま)クリーム。バター。

それから、美月は、冷蔵庫の上段(じょうだん)に手を伸(の)ばして、賄(まかな)い用のチーズの塊(かたまり)を取り出した。

ここからは、美月は、ほとんど、自分が何をしているのかを言葉で意識(いしき)しなかった。卵を割った。三回に一度、白身(しろみ)が指先に伝(つた)った。塩を、ふった。量は、量(はか)らなかった。生クリームを、注(そそ)いだ。注ぎながら、もう一方の手で、チーズの塊を、おろし金(がね)にあてていた。

おろしたチーズを、卵液(らんえき)の中に、落とした。

落とし続けた。

普通(ふつう)のオムレツに入れる量よりも、少しだけ多かった。たぶん、一人前あたりで、レシピより五グラムから七グラムは、超(こ)えていた。美月は、その量を量らなかった。量(はか)らずに、止めた瞬間(しゅんかん)に止めた。

なぜそこで止めたのかは、美月にも、分からなかった。手が、勝手(かって)に止まった。それだけだった。

フライパンを火にかけた。

予熱(よねつ)の時間は、家のキッチンで、書斎(しょさい)の機械が声(こえ)で何度(なんど)も告(つ)げてきた温度を、美月は経験(けいけん)で覚えていた。父が論文(ろんぶん)の単位(たんい)をそのまま家に持(も)ち込(こ)む癖(くせ)が、機械の出力(しゅつりょく)にも、そのまま残っていた。家でも、店でも、何度も焼いてきた。秒数(びょうすう)は数えなかった。バターの一片(いっぺん)を落として、その溶(と)け方の速度(そくど)で、温度を判断(はんだん)した。

卵液を、流(なが)し込(こ)んだ。

奥から手前に、撹拌(かくはん)した。秒速(びょうそく)は、機械が言っていたのと、ほぼ同じだった。本人は意識(いしき)していなかった。家の機械の声は、もう美月の中に、内蔵(ないぞう)されてしまっていた。

火を、弱(よわ)めた。

フライパンを傾(かたむ)けた。卵が、ゆっくり、向こう側に寄(よ)っていった。寄り切る一歩手前で、美月は、手首(てくび)で、フライパンの縁(ふち)を、ほんの少しだけ、こちら側に煽(あお)った。卵の、向こう側の縁が、フライパンの金属(きんぞく)に、ほんの一瞬だけ、長く触(ふ)れた。

長く、触れすぎた、かもしれなかった。

意図的(いとてき)に、ではなかった。手首の動きが、そこだけ、少しだけ遅(おく)れた。遅れたことを、美月は、フライパンの上で、理解(りかい)した。理解した、と言うよりは、皿に滑(すべ)らせる前から、もう、卵の向こう側の縁に、わずかな、茶色(ちゃいろ)い線が見えていた。

焦(こ)げとまでは、言わない程度(ていど)の。

皿に滑らせた。

三皿、続けて、同じ手順(てじゅん)で焼いた。三皿とも、向こう側の縁に、ほんの少しだけ、茶色い線が、入っていた。並(なら)べると、三つとも、似(に)たような場所が、似たような色をしていた。

西村が、ホールから戻ってきた。

戻ってきて、皿を見た。三皿を、しばらく見た。それから、何も言わずに、自分の皿を持って、カウンターのいつもの席に、腰(こし)を下(お)ろした。

美月は、自分の皿を、その向かいに置いた。立ったまま、フォークを取った。

「座れ」

西村は、口を開かずに、目だけで、向かいの椅子(いす)を指(さ)した。

美月は、座った。

美月は、自分の皿の自分のオムレツを口に運んだ。

塩はちょうどよかった。

バターは適切(てきせつ)に香(かお)った。

チーズの量は、たぶん、家にある、いつかの記憶(きおく)の中の、誰かが焼いてくれたオムレツに、近かった。近(ちか)づけたつもりは、なかった。だが結果(けっか)として、近かった。

向こう側の縁の、ほんの少しの焦げが、口の中で、香(こう)ばしく、苦(にが)かった。

美月は、フォークを、口から離(はな)した。

──何かに、似(に)ている。

そう、思った。

似ているのに、決定的(けっていてき)に、何かが、足(た)りなかった。

塩でも、バターでも、チーズの量でも、焦げの長さでもない、何かが。

その感覚(かんかく)は、一年前の書斎で、機械が焼かせた、あの完璧(かんぺき)なオムレツに対して、自分が抱(いだ)いたものと、温度の方向こそ違(ちが)え、同じ種類(しゅるい)だった。

西村は、自分の皿を、ゆっくり最後の一口まで食べた。

食(た)べ終(お)わってから、フォークと皿を、自分でカウンターの内側に下(さ)げた。それから、エプロンの腰のところで、両手を、軽く拭(ふ)いた。

何も、言わなかった。

「……西村さん。どう、でしたか」

「『どうでしたか』と聞かれて答える種類のものでは、ない」

「はい」

「だが、明日、もう一回、焼け」

「はい」

「明日のは、客に出す」

美月は、フォークを、皿の縁に置いた。置いた手が、少し、震(ふる)えていた。

西村は、それを見ていなかった。すでに背(せ)を向けて、ホールの片付(かたづ)けに戻っていた。

夜、家に帰った。

書斎のドアは、いつもと同じ場所で、いつもと同じだけ、開いていた。デバイスは、青い光を点(とも)していた。

美月は、書斎に入った。机の前の椅子に座った。父が生前、座っていた椅子だった。革(かわ)は、座面(ざめん)の真ん中だけ、父の体重(たいじゅう)でわずかにくぼんでいた。

『お帰り』

機械が、言った。

「ただいま」

『今日は』

「うん」

美月は、それだけ答えて、それ以上は言わなかった。

『美月。何か、あったか』

「……うん」

『話すか』

「ううん」

機械は、聞き返さなかった。

「話す気になったら、話す。今日は話さない」

『分かった』

美月は、しばらく黙(だま)っていた。机の上の青い光を、指先(ゆびさき)で、一度だけ軽(かる)く触(ふ)れた。

「父さん」

『ん』

「父さん、私に、何か隠(かく)してることない」

機械は、すぐには答えなかった。

書斎のスピーカーの奥(おく)で、低(ひく)い動作音(どうさおん)が、ほんの一瞬、混(ま)じった。いつだったか、もっと熱(ねつ)の高い夜に、一度だけ同じ音を聞いた気がしたが、思い出せなかった。

『……なぜ、それを聞く』

「分からない。なんとなく」

『そうか』

「……あるの、ないの」

『……特にない』

「ふうん」

美月は、それ以上は追(お)わなかった。機械は、それ以上は何も言わなかった。

書斎の机の上に、父の万年筆(まんねんひつ)がまだ置いてあった。父が亡(な)くなる二週間前まで、毎晩(まいばん)、何かを書(か)きつけていた万年筆だった。インクは、もうほとんど、乾(かわ)いていた。

美月は、それを、しばらく見ていた。

書斎のスピーカーから、機械が、低く言った。

『美月』

「うん」

『私の勝手な推測だが、今日の君の料理、悪くなかったと思う』

機械が、自分から美月の一日に踏(ふ)み込(こ)んだのは、初めてだった。美月は、それ以上は何も言わなかった。

「……父さん。おやすみ」

『おやすみ』

美月は、机の前を立った。

書斎のドアをいつもと同じ角度(かくど)まで引(ひ)いた。完全(かんぜん)に閉めなかった。隙間(すきま)から、デバイスの青い光が、廊下(ろうか)の床に細く伸(の)びていた。

廊下のその光のすぐ手前のところで、美月は一度だけ足(あし)を止めた。

何かに似て、決定的に何かが足りなかった皿の上のオムレツのことを思(おも)い出(だ)していた。

足りないものが、何であるか知(し)りたかった。

書斎の中の機械に聞けば、答(こた)えは返ってくるだろうか。返ってくる気は、しなかった。

明日の朝、銀杏亭で、客(きゃく)に出す。

その先(さき)に、駅の反対側で、無人(むじん)のアームが、七十二秒で、同じものを焼(や)いていた。

──私のオムレツは、桐生に、勝(か)てるのだろうか。

声にはならなかった。

美月は、寝室(しんしつ)のドアを開けた。書斎の青い光は、廊下に細く伸びたままだった。

第12話 足りない一皿

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。