第14話 014

葵の手

それから三日後の、土曜日だった。

あおいから連絡が来たのは、前日の夜のことだった。「定期メンテにうかがいます」と、短い文面。葵の連絡はいつも短い。

午前十時。インターホンが鳴った。

葵は、黒い小さなショルダーバッグと手提てさげの工具ケースをげて立っていた。葬儀そうぎのあとに書斎しょさいへ来たときと同じような服装で、同じくらい淡い表情をしていた。

「お久しぶりです」

「うん。──ありがとう」

「ケン先生は」

「いつも通り」

「拝見します」

葵は靴を脱ぎ、まっすぐ書斎へ向かった。父が生きていた頃から、書斎までの動線どうせんを、葵は知っていた。


書斎に入ると、葵はまずデバイスに軽く頭を下げた。

「ケン先生、葵です」

『久しぶりだな、葵』

「お変わりは」

軽微けいびなエラーがいくつか。ログとして、君の研究室けんきゅうしつのストレージにすでに送ってある』

「拝見しました」

葵は、机のいつもの場所にノートPCを開いた。父が生前使っていた、机の右側のコンセントに電源コードを差した。父の所作しょさとほぼ同じ動きだった。葵はそういう細かい場所だけ、父に似ていた。

美月は、机の反対側の椅子に座った。

「美月さん、この三十分ほど、ケン先生の応答がいつもより遅くなります。それは故障こしょうではありません。診断しんだんモードです」

「うん」

「いつも通り、お茶でもれていてください」

「うん」


葵は点検てんけんを始めた。画面の中で数値すうちが流れていく。美月にはほとんどの意味は分からない。ただ、葵の指先ゆびさきの止まる場所が、いつもよりひとつだけ多い気がした。

途中で一度、葵は画面から目をらした。逸らした先には何もなかった。書斎の窓の、りガラス越しの光に、ほんの数秒、視線しせんを置いただけだった。まぶたを強く一度閉じてから、また画面に戻った。

しばらくして、葵は顔を上げた。

「先生、最近、語尾ごび合成ごうせい遅延ちえんが出ているそうですね」

『〇・三秒だ』

「数値だけ見れば、軽微です。ただ」

『ただ?』

頻度ひんどが」

葵は画面に視線を戻した。

「半年前は、月に一度でした」

『……』

「最近は、週に一度になっています」

美月は、湯呑ゆのみの取っ手から指を離した。

修復しゅうふくは、されているんでしょう?」

「ケン先生ご自身で、休まず直し続けておられます」

葵の指がキーの上で短く止まった。

「直すというよりも、人でいう成長せいちょうです。日々、ご自身でご自身を書き換える設計せっけいですから」

「自分で?」

「ええ。普通のAIは、出荷しゅっかされたあとは中身を凍結とうけつしたまま動きます。ケン先生は、その点だけは特別とくべつです」

美月は湯呑みの取っ手から指を離した。

「ただ」

葵は画面に視線を戻した。

「直すたびに、別の場所に小さなゆがみが残っているようです。傷をう糸の引きつれのようなものです」

葵の声は淡々たんたんとしすぎていて、何かを隠しているようにも聞こえた。

「……ケンは、長くつの?」

「ケン先生は、ご自身では『進化しんか』と表現ひょうげんしておられます」

葵は一度、言葉を切った。

「──私の側からは、そう言い切れません」

「……」

「進化のように見えるかたちで、収束しゅうそくに失敗していかれている、と申し上げる方が、たぶん、正確せいかくです」

書斎の磨りガラスの光が、机の縁で一度ゆっくりと動いた気がした。

「外から手を入れて止めることは、できません。触れた瞬間しゅんかんに、これまで積み上げてこられた記憶きおく整合せいごうが崩れます」

葵は視線を画面に戻した。それ以上、美月は聞かなかった。聞いて答えが返ってくる種類しゅるいのことではないと分かっていた。

「……葵さん」

「はい」

「もし、ケンがどうにもならなくなったら」

葵の指が、キーの上で一瞬だけ止まった。

「ケン先生のことは、私の側で見ています。──いま美月さんが心配しんぱいなさることでは、ありません」

葵は画面に視線を戻した。指は動かなかった。美月も、それ以上は聞かなかった。

「美月さん」

「うん」

「もうひとつ、今日、お持ちしたものがあります」

葵は、ショルダーバッグから黒い小さな箱を取り出した。手のひらに乗るくらいの大きさ。表面にUSBの端子たんしが、ひとつだけ突き出ていた。

「先生のご遺留品いりゅうひんです。研究室の備品びひんではなく、先生がお一人で使われていた、個人用こじんようのストレージです」

美月は、葵の手のひらの上の小さな黒い箱を見た。父が自分で買って、自分でかぎをかけて、誰の目にも触れない場所に置いていたもの。

「葬儀のあと、私物しぶつ整理せいりが、ようやく今日になりました。──遅くなって、申し訳ありません」

「ううん」

葵は、デバイスのそばに、その箱を置いた。星のような小さな光のすぐ隣に置いた。

「鍵が、かかっています。先生がお一人で、鍵をかけられたものです」

「ケンとは、つながっていないの」

「繋がっておられません。ただの外付けのストレージで、ケン先生はつながない限り物理的にアクセスできません。先生が、ご自身の手で、ケン先生からも私からも切り分けておられた、最後の場所です」

「父さんが、自分で切り分けていたのね」

「はい」

美月は、机の上の黒い箱に、すぐには手を伸ばさなかった。伸ばさないまま、しばらく、その小さな黒い輪郭りんかくを見ていた。

「ケン先生には、このまま二時間ほどスリープに入っていただきます」

了解りょうかいした。再起動さいきどう手順てじゅんは、葵にゆだねる』

「ありがとうございます」

ケンはそれきり何も言わなかった。

青い光がゆっくりと暗くなっていった。完全には消えなかった。星のように、小さな点だけが残った。

「ケン先生の再起動さいきどうまでは、時間がかかります。九十分ほど、私は席を外します」

「うん」

葵は立ち上がって、ショルダーバッグを肩に掛けた。工具ケースは机のわきに置いたままにした。机の上の、暗くなったデバイスのとなりの、黒い小さな箱の方を一度だけ見た。

「この箱の中身は、私もうかがっておりません。──先生は、私には見られたくなかったのだと思います。ですから、私のいない時間じかんに、開けてさしあげてください」

「うん」

葵は、玄関先で一度だけ立ち止まった。

「美月さん。先生からは、もうひとつだけ、おあずかりしていることがあります」

「……うん」

装置そうちの方から指示しじが来たら、その時は、その指示に従ってくれ、と」

「指示」

「その時が来れば、装置の方から知らせが来る、と。──私は、それを、知らないまま待つことになっています」

「葵さんにも、知らされていないのね」

「はい。先生は、私には、知らせの受け方の方しかお伝えになりませんでした」

葵は、もう一度、机の上の黒い小さな箱の方を見た。それから、視線を玄関の方に戻した。

葵は頭を下げて、書斎を出ていった。玄関げんかんのドアがいつもの音で閉まった。

書斎に、美月だけが残った。机の上に、葵の置いた黒い小さな箱。星のような小さな光だけを残したデバイス。父の万年筆まんねんひつ。インクは、もうほとんどかわいていた。

美月は椅子から立ち上がった。

机の上の、黒い小さな箱に、指を伸ばした。

第14話 葵の手

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。