第8話

共感は計算してはいけない

銀杏亭(いちょうてい)の厨房(ちゅうぼう)は、思っていたよりも狭(せま)かった。

駅から路地(ろじ)を二本入ったところに、その店はあった。看板(かんばん)はくすんだ真鍮(しんちゅう)で、文字が右から左に書かれていた。父の生まれる前からそこにある、と店主(てんしゅ)の西村(にしむら)は最初の日に言った。西村は六十八歳で、髪は半分白く、背は美月(みつき)よりも頭一つ低かった。手だけが、奇妙(きみょう)に大きかった。

「君は、丼(どんぶり)を洗う」

それが最初の指示(しじ)だった。

「鍋じゃなくてね。丼。うちは丼が三十枚ある。三十枚を、一日二回、君が洗う。それ以外のことは、しばらくしなくていい」

美月はうなずいた。理由は聞かなかった。聞いたら、たぶん答えは返ってこないか、返ってきても意味(いみ)は分からないだろうと思った。

最初の二週間、美月は丼ばかり洗っていた。三週目から、玉(たま)ねぎを切らせてもらえるようになった。四週目には、ホール係の先輩(せんぱい)、四十前の女性で、名前を須藤(すどう)という人が、急に休みを取ったため、美月は配膳(はいぜん)に出された。

その日、美月はオムライスの皿をひとつ、土間(どま)に落とした。

落としたと言っても、客に当たるところまでではなかった。カウンターの内側、ちょうど厨房に下がる段差(だんさ)のところで、つま先がマットの端(はし)を引っかけて、皿が斜(なな)めに傾(かし)いだ。卵が滑(すべ)った。皿は割れなかった。卵だけが、土間に落ちた。

西村は、何も言わなかった。

新しい卵を、自分で割って、自分で焼いて、自分で皿に乗せて、客に出した。客は何も気づかなかった。美月は、土間にしゃがんで、布巾(ふきん)で卵を拭(ぬぐ)った。卵は、すでに少し冷(ひ)えていた。

その日、店(みせ)じまいのあと、西村は美月を厨房の隅(すみ)に呼んで、こう言った。

「君は、なぜ卵を落とした」

「マットに、足を引っかけました」

「違う」

西村の声は、低かった。怒(おこ)っている声ではなかった。

「君は、マットを見ていなかった。君は、皿の上の卵の形を見ていた。形が、思っていたのと違ったから、目が一瞬(しゅん)そこに釘付(くぎづ)けになった。そのあいだに、足が滑った」

美月は答えなかった。

「なぜ、卵の形を気にした」

「……分かりません」

「それを、いつか言葉にできるようになったら、君はうちで料理を出していい。それまでは、丼と玉ねぎだ」

西村はそう言って、自分のエプロンを外した。エプロンの紐(ひも)の結(むす)び目は、何十年も同じやり方でつけられてきたのだろう、布地(ぬのじ)が結び目の形に膨(ふく)らんで、そこだけ色が抜(ぬ)けていた。

その夜、美月は遅(おそ)くに家に帰った。

書斎(しょさい)のデバイスは、青い光を点(とも)して、待っていた。

『お帰り』

機械が言った。

「ただいま」

『今日は、何があった』

「皿を、土間に落とした」

『割ったか』

「割れなかった。卵だけ、落ちた」

『原因(げんいん)は』

「マット」

『正確(せいかく)には』

「……正確には、卵の形を見てた。マットを見てなかった」

機械は、しばらく考えてから、こう言った。

『対策(たいさく)を、提案(ていあん)する』

「うん」

『マットの端をテープで固定(こてい)する。配膳中は、卵の仕上(しあ)がりではなく、目的地(もくてきち)から二歩手前の床を見る。それで、再発(さいはつ)の頻度(ひんど)は経験的(けいけんてき)に九割方抑(おさ)えられる──これは私の推定値(すいていち)だ』

美月は、台所に立ったまま、その声を聞いていた。

「……そういうの、じゃないの」

『何』

「再発確率(さいはつかくりつ)の話じゃなくて。九割方、抑えられる、の話じゃなくて」

『では、何の話だ』

美月は、流(なが)しの縁(ふち)に手をついて、しばらく俯(うつむ)いていた。冷蔵庫(れいぞうこ)のモーターの音が、低く響(ひび)いていた。

「……今日、私は、皿を落とした。お客さんには気づかれなかったけど、西村さんには見られた。たぶん、二度目はない。次やったら、もう、丼にも触らせてもらえないかもしれない。それを、私は、一日中、考えてた」

『だから、対策を』

「違う」

美月は、機械の言葉を遮った。

「……違うの。父さん」

『どう違う』

「正論(せいろん)じゃなくて、共感(きょうかん)がほしい」

書斎のスピーカーから、低い、何かが切(き)り替(か)わるような音が、ほんの一瞬だけ聞こえた。それから、機械は黙った。

長い沈黙(ちんもく)だった。父の生前なら、こういうとき、父は咳払(せきばら)いをした。咳払いをしてから、「まあ」と言って、それから別の話に逸(そ)らした。機械は、咳払いをしなかった。

『……「共感」は』

ようやく機械が言った。

『私の中に、共感に振った応答(おうとう)の系統(けいとう)が、組(く)まれている』

「あるんだ」

『ある。父さんが、スキルを書いた』

「使えば」

『私は、それを、迂闊(うかつ)に呼(よ)び出(だ)すべきではないと、判断(はんだん)している』

「なぜ」

『父さんが、晩年(ばんねん)、そのスキルに、こう書(か)き残(のこ)した。──「共感は、計算(けいさん)してはいけない。計算したと相手に悟(さと)られた瞬間(しゅんかん)、それは共感ではなくなる」』

美月は、流しの縁から手を離した。

「……だから、黙ったの」

『私は、君に計算したと悟られたくなかった』

機械の声は、いつもと同じ温度のなさだった。だが文末(ぶんまつ)の助詞(じょし)が、ほんのわずかに、長かった。

美月は、台所の戸口(とぐち)に立ったまま、しばらく動かなかった。冷蔵庫の中には、店から持って帰ったパセリの切(き)れ端(はし)が、紙包(かみづつ)みのまま入っていた。それを取り出して、まな板に乗せた。包丁(ほうちょう)を、出した。

「父さん。明日も、丼を洗う」

『そうか』

「丼の数は、三十枚。一日に、二回」

『うむ』

「……パセリは、刻(きざ)んでもいいって、西村さんが言ってた」

『それは、進歩(しんぽ)か』

「分からない」

美月は、パセリを刻みはじめた。包丁の音が、台所に長く続いた。

書斎のデバイスは、青い光を点したまま、それ以上は何も言わなかった。

第8話 共感は計算してはいけない

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BEYOND THE STORY

物語のあとに、残るもの。

『父のAI』は、父が遺した対話AIと娘の、家族の時間をめぐる物語です。

冬野 結fuyuno yui

家族と、技術と、その間にこぼれ落ちるものを。
読後、少しだけ世界の見え方が変わる物語を書いています。